同罪

文字数 2,218文字

 夕刻、和歌子は博多の港を出る台湾行きの客船を待って居た。手荷物検査を終えた乗船待合室の中、入場券を手にした西郷と共に、傾き始めた夕日に赤みを増してゆく空を見上げていた。
「貴女が、御田川和歌子さん?」
 和歌子に声を掛けたのは、艶やかな黒髪の女性だった。
「えっと」
「突然ごめんなさい、私の名前は聡美・リャヌラ・飯塚、貴女の事は、私の夫から、聞かされました」
 和歌子は目を瞠った。
「まさか……エンリケ・リャヌラさんの、奥様……」
 頷く聡美に和歌子は居住まいを正した。
「その、ご主人様には、何度も助けて頂きました……」
「そう言って貰えると、夫の事が、誇らしいです……それより、急にこんな事になって、大丈夫?」
「え……」
「台湾に逃げるというのは、私の夫が手配した事で……貴女も同じ様に、怖い人達に名指しされていて、夫は貴方の事も心配していました。夫は……故郷で大切な人を失くしていて、あの職場で相棒だった方にも、同じ思いをして欲しくないからと」
 和歌子はただ聡美を見つめた。
「……正直、私は此処で貴女に会えた事、こんな形で巡り会った事は残念だけど、とても嬉しいの。私も……これ以上未来のある若い人に死んで欲しくないし、そう思ってくれる人が、他にも居て、それが、夫の信頼した方だったという事が」
 土谷さん。和歌子は胸の奥で目の前の女性の夫が信頼していたその男の名を呼ぶ。だが、本当は違っていた。
「どうして、自分の愛する国を離れなくちゃいけないのかって、すごく悔しいかもしれないし、この国の為に、この国に留まって何かをしたいって思ったかもしれない。だけど……此処に居て殺されるくらいなら、逃げる方がずっといいと私は思うし、そうさせてくれた夫に……夫の信頼していた方に、私は感謝してるわ」
「私も……ご主人様に、直接は伝えられないですけど……入国する事さえ厳しい台湾に逃げられる事、幸せです。奥様の方から……何かの折に伝えていただければ、嬉しいです。本当は、自分で言いたいですけれど……」
 聡美は悲しげに微笑み、分かったという。
「お二人とも、そろそろ乗船可能になります。船内から現地での案内は私が担当します、それぞれ、現地の仲介人に引き継ぎを行うまで、私が責任を持ちますので、ご安心下さい」
 聡美に同行していた警備員の渡辺に、二人は頭を下げる。
「それと、御田川さん……ご両親が後からそちらに向かうかもしれません。その時に何かあれば、私の方に連絡を下さい。通訳の手配など、お力になります」
「は、はい……よろしくお願いします」
 和歌子は再び渡辺に頭を下げる。だが、通訳に関してはあまり心配がいらなかった。むしろ、和歌子自身の方が、台湾で使用されている広東語は全く分からず、英語も分かるとはいい難いのだ。
「……貴女のご両親は、逃げる事を選んだのね」
「え……」
 和歌子は悲しげに呟く聡美を見た。
「私の両親は……この国に残って、この国の為に、これから混迷を極めていくこの国の為に尽くすと覚悟を決めて、残ると言いましたから」
「そんな……」
「でも……そういう人が居ないと、きっと、混乱のままこの国は滅茶苦茶にされてしまう……私も、本当は残りたかったけれど……夫を悲しませたくはないし、お腹の子を連れて帰るのが、私の役目だから」
 聡美は自分に言い聞かせる様に呟き、まだふくらみの目立たない腹部に手をやった。
「……どうか……どうか思いつめないで下さい……きっと、これから生まれてくるお子さんは……そんなにも頼もしいおじいちゃんとおばあちゃんと、お父さんが居る事を、いつか誇りに思ってくれるでしょうから……」
 聡美は驚いた様に和歌子を見る。
「私には……誇りに思えるご先祖様とか、居ないですから……」
「……ご先祖様……そうよね、誇りに思えるって、素晴らしい事よね」
 聡美は悲しみに濡れた瞳で、無理矢理に笑う。
「そうです、だから……それは尊くて、素晴らしい事だって、教えてあげて下さい」
「……そろそろ行きましょう」
 渡辺に促され、二人は船内へと進む。
 そして和歌子は、ふと窓の外を見遣った。
 胸の奥に、感情が去来する。
 自分には、自分を逃がしてくれた、土谷と呼んだ男のよすがが、何も無い、と。
 和歌子は崩れ落ちる様にしゃがみこみ嗚咽した。
 婚姻の事実も、子供の存在も、写真の一枚さえ、彼女には残されていない。ただ、その御霊の名前を探して欲しいとと教えられた名前だけが、彼女に残されたよすがだった。だが、それは、永遠に再会する事の無い未来にしか役に立たない。
 一緒に生きたかった。名前を呼びたかった。土谷という仮の名前ではなく、彼が生まれ持ったあの美しい名前で呼びたかった。
 これが初めての恋だと伝えたかった。
 だが、現実は残酷にも、同じ国で生きる事さえも叶わない。
 聡美は和歌子の背に手をやって、悔しいのは分かる、寂しいのも当然だと慰める。そして出向が近づき、席に着いた和歌子は赤く染まる海面を見下ろして決意した。
 同じ罪を背負おう、と。
 自分が土谷と呼んだ男がこの国の為にその手を血に濡らすのであれば、自分は愛する国の為に手を血に濡らす事を良しとし、それを称賛しよう、と。
 それで同じ罪が背負えるのなら、それでいいのだ、と。
 やがて動き始めた船は、八洲を背に台湾へと向かう。
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