背中

文字数 1,756文字

 市松宮襲撃計画から始まった事件はまだ解決していないが、土谷が協会を去って警察へと戻った事で調査する事案は無くなり、エンリケは数日の休暇を申し出て自宅に戻った。その夜が明けた朝の事だった、明らかに住宅街で聴くはずの無い轟音が、二人を叩き起こしたのは。
 エンリケはそれが爆発であると理解するが、カーテンを開ける事はせず、伏せたまま警察に通報する様にと妻を残し、一階へと降りた。死体遺棄事件に巻き込まれて以来、夜間は雨戸を締め切っているが、爆発の衝撃で硝子が割られたのか、縁側に面した居間には焦げ臭い刺激臭が入り込んでいた。
 エンリケが姿勢を低くしながら屋内の被害を探っていたところ、更に異質な音が住宅地に響いた。彼は床に伏せ、発砲音が消えるのを待つ。衝撃の大きさからして、装填に時間の掛かる散弾銃であると考えた彼は、それはすぐに収まるだろうと耐えていた。だが、発砲音は執拗に繰り返され、明らかに玄関扉を破ろうとしていた。無論、門扉には警報装置があり、周囲にも緊急時には通電する鉄線を張っている。
 警察でも警備会社でも、第三者が到着すれば収まるはずだとエンリケは歯噛みしていたが、発砲音に続き、二度目の爆発音が響く。衝撃の方向からして、物干し場所を兼ねた二階のベランダだと彼は理解するが、玄関への発砲は収まらない。ただ、二階に残された聡美が爆発音にも耐え、籠城し続けている事だけが救いだった。
 やがて発砲音が止み、玄関への銃撃が終わった事をエンリケは理解する。しかし、直後に三度目の爆発が起こった。それも、玄関先で。
 ――畜生。
 エンリケは舌打ちする様な心持だったが、焦げ臭い刺激臭から火の手が上がった事は容易に想像出来、同時に火の手を超えてまで襲撃犯が入ってくる事は無いと判断し、彼は二階へと駆け上がる。
「あなた」
 窓から離れた場所で伏せていた聡美はエンリケの姿に安堵を覚えた。
「警察は?」
「もうすぐ来るはず……」
 エンリケにとって果てしなく長かったあの銃撃は、僅かな時間の事だった。警察車両のサイレンは、爆発音に紛れていただけで、着実に迫っていたのだから。
 二人が雨戸の閉ざされた二階で伏せている中、壊れた扉を蹴破った消防士が二階へと駆け込んできたのは、それからすぐの事だった。

 幸いにして爆発物の威力は小さく、上がった火の手はすぐに消し止められたが、玄関先は黒く焦げ跡が残り、二ヶ所の雨戸と窓硝子は壊れてしまった。玄関扉も壊れてしまっており、新築から程無い夫婦の自宅は住める状態ではなくなった。警察はホテルへの避難を促したが、エンリケは所属する警備保障会社に事情を説明し、支社の独身寮への一時避難を手配する。
 火災と放水で荒れ果てた室内を放置する事は自宅を放棄するも同然だったが、この状態で更に何らかの事件が起これば命の保証すらない。エンリケは聡美に貴重品をまとめるよう促し、聡美が研究資料として収集した書籍や論文の写しを別の場所へ移すべく片づけを始めた。
 そうしてエンリケが荒れ果てた自宅を出たのは、既に日も暮れた頃。残る家財道具の処分や自宅の後始末を義理の両親に託し、彼は聡美を避難させた独身寮へと向かう。
「聡美、もう、此処に居てはいけない。行き先は俺が見つける、出来るだけ早く、逃げるんだ」
 何も無い部屋の中、エンリケは聡美に更なる非難を促すが、聡美は首を振った。
「でも」
「お腹の子供が危険な目に遭わないよう、十分な行き先を確保する。少しの間は、此処で辛抱して欲しい」
 俯く聡美には、この場所が一時しのぎの宿である事は分かっていた。あと数週の内に、身ごもった子供が動き始める事も分かっていた。だが、愛する夫と離れ離れになり、愛する国を出ていく事が認められなかった。無論、傭兵である限り夫と過ごせる時間が限られている事は分かっていたが、同じ国に居る事すら許されないのが、彼女には受け入れ難かった。
「でも……あなたは……」
「俺は残る。生まれてくる子供に、あるべき姿の国を見せたい。外国人の俺が、外国人と呼ばれる事を、これほどまでに恨まなくても良かった国の姿を」
 聡美はエンリケの胸に縋りついた。何故この世の中はこんなにも尊い父親を、夫を、奪おうとするのか、と。
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