宿命

文字数 2,662文字

 ――あの書架だが、ストッパーに細工がされていた。どうやら一定以上の力を入れればストッパーが有効な状態でも書架が動く様になっていた。整備はしているが、素人仕事だ、注意して使え。
 書庫での一件から一夜明けたその日、当直当番だった吉田は引継ぎで和歌子の事件を知り、書庫の整備に入ってその事実を突き止めるに至った。
 平素は土谷を戦場を知らない素人の文民と見下している吉田だったが、非常時には本職の軍人さえも傭兵の様に動くのだと土谷は感心しながら、何故その様な細工が行われたのかと思案していた。
 吉田の口ぶりからして、あまり力の無い和歌子が動かす分には動かず、男の腕であれば動く程度の絶妙な匙加減の細工だった事が窺える。そして、それが和歌子を狙ったものであるとしたら、厄介であると感じていた。
 彼女は土谷と同じく、エスなのだから。
 土谷が知る限り、和歌子は地元の大学で挫折し、通信制の大学に入り直して以降、いくつかの職を転々としている人物である。その中には地元の税務署で紙の書類を整理する仕事や、市役所の税務課での書類整理といった事務職が含まれており、警察署に於いても印刷された名簿などの整理を行う短期の非常勤として勤務していた。
 一見すれば官公庁のアルバイトを好むただのフリーターであるが、彼女は好奇心旺盛で、守秘義務はあるにせよ、扱う書類は一通り眺める癖があるらしい。それは警察署で一般事務の書類を整理していた時、何が何処に有るかを短い間にも把握していた事ではっきりしている。
 その結果、彼女は簿書整理の担当者が不足していた協会へ出向という形で就職する事になったのだ。とはいえ、彼女自身最初から警察あるいは公安のエスとして派遣されていたわけではない。丁度学費の返済にも窮していた為、高給取りかつきつくない割のいいアルバイトだと言って彼女はそれを引き受けている。ただ、其処には土谷の様に警察から明らかにエスの任務を課せられて出向してきた人間が居り、結果的に彼女は警察から派遣されたエスの為のエスになってしまったのだ。
 しかし、彼女は好奇心旺盛で目敏いだけではなく、聡かった。土谷が話しかける内、彼女は彼に気を許す一方、それが任務である事を悟った。だが、彼女はそれを受け入れた。それがこの国の役に立つのであれば、と。
 朝礼を終えた土谷は情報管理課の事務所で頬杖を突き、使い物にならない端末を見遣った。昨日、電子システムに詳しい生駒に解析を頼んだ結果、各種書類の検索に何らかの細工がされている事が判明したのだ。生駒曰く、保安部のアカウントからの検索には、特殊なマスキングがされているとの事だった。その保安部には情報管理課もあるが、これはあくまでも印刷物として保管される簿書の管理であり、電子データとして保管されている情報を管理するのは総務部情報管理課の仕事であり、保安部からは干渉が出来ない。
 誰が何の目的で、例え出向や外部からの傭兵という形の職員であっても、協会の職員である保安部職員にその情報を開示しないのかは定かではなかったが、土谷は広報部企画課のジャマイカ人との関連を疑った。その人物の本来の業務はイベントやプレゼンテーションの類で、主にウェブサイトの構築を手掛けているが、彼は情報処理に関する知識が豊富で、アメリカの大学を卒業し、日本語を覚えて来日している。その一方、無政府主義運動を支持していた経歴があり、保安部の重点監視対象者でもある。
「まさか、な」
 考えすぎるのが悪い癖だと思い直しながらも、土谷は考えずにはいられなかった。
 これから出勤してくる、彼女の事も同じ様に。
 彼は雑念を振り払う様に、和歌子に代わって掻き集めた簿書の整理に勤しんだ。だが、仕事をしていても時間は過ぎ、また、和歌子が出勤してくる。しかも、あの一件の為に、書庫の整理は二人一組で行う事にしている。
 最も手間のかかる探索作業を和歌子に任せるのは、少しばかり気が引ける様だったが、彼女の目敏さは便利な能力とも言えた。そうして暫く作業をしていると、土谷に連絡が入る。書庫に入れないまでも機密性の高い文章の整理をしていた簿書係長から、破砕処分の決済が下った書類を始末して欲しいとの物だった。
「ワゴンの整理だけですから、一人でも大丈夫です。書架の間に入るのは、土谷さんが戻って来てからにしますから、行って下さい」
 和歌子の言葉を信じ、土谷は情報管理課の事務所へと引き返す。
 そして和歌子は土谷の帰りを待ちながら、ワゴンに出された雑多な簿冊を振り分けた。かなり長い期間放置されていた印刷物は殊の外多く、彼女は呆れた様に整理し、紐でまとめて台車のコンテナへと放り込んでいた。
 そんな中、開け放たれた書庫の扉の向こうから、男の声が和歌子の耳に届く。それは英語だったが、和歌子にも理解出来る単語が含まれていた。それも、飛び抜けて危険で物騒な単語が。
 和歌子は息を殺し、土谷が一刻も早く戻ってくる事を心底祈った。だが、物騒な単語を含む会話の終わる方が早く、話し声はすぐに消え去った。
「おい」
 書庫を覗いた土谷は、ワゴンに手を添えたまま立ち尽くす和歌子を目にし、眉を顰めて駆け寄った。
「ひ、土谷さん、ちょっと、ちょっと休憩しましょう」
 和歌子は作業を全て放り出し、土谷の腕を掴んで簿書係の作業部屋へと向かう。そして部屋を閉め切り、聞き間違いならいいんですけど、と、前置きをして話し始めた。
「さっき……男の人の声で、英語の話だったんですけど……キルだのエクスプロージョンだの、なんか物騒な単語を沢山聞いて……それだけじゃないんです、ヤマナカとか、イチマツノミヤとか……」
 最後の言葉に、土谷の形相が変わる。それは、十日後に正式な診療を開始する再生医療専門の山中記念病院の開院セレモニーに、皇族でありながら医学部を卒業し、医療研究に携わる市松宮(いちまつのみや)が来賓として呼ばれている事と一致していた。
「まさか……」
「市松宮殿下は、ご自身が皇位を継承される事はおそらくないのでしょうけど……妃殿下が懐妊されているお子さんが男子かどうか、まだ分からない……そんな時、ですから……」
「……暫く此処に居ろ。控室に行ってくる」
 土谷は出来る限り平静を装いながら、警備課の控室へと向かう。
 ほんの半年ほど前、彼女が出向してきた直後には、使えるかどうかわからないエスとしか思っていなかった小娘の事を、何よりも案じながら。
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