悪魔の隠れ家

文字数 2,382文字

 市街地で男性が通り魔に襲われ、すぐ近くの路地で女性の惨殺死体が発見された夜が明けたその朝、早朝のランニングに出ようとしていた土谷は警察からの情報提供を受け、トレーニングウェアのまま出勤鞄を掴み、エンリケが借りているアパートの一室へと向かった。エンリケも早朝のランニングを日課としており土谷は不在を覚悟していたが、この日のエンリケは土谷に叩き起こされる格好だった。
 エンリケは身なりこそ起き抜けのままだったが、土谷がトレーニングウェア姿で訪れた事で急を察し、土谷を招き入れた。
「短刀直入に言う、面倒事だ」
「テロか?」
「いや、ひでぇ事件が起こったんだ、まずは聴いてくれ。昨夜九時、ナショナルホテル一号館近くの路上で山中記念病院の理事が襲撃され、手帖を強奪された」
 その病院の名にエンリケの表情は強張った。
「襲撃犯と強奪犯は別人、うち強奪犯を追いかけた若い女性が現場近くの路地で倒れているのが発見された。ガイシャは二十一歳で大学生、相貌が分からなくなるほど顔面を殴打され、発見時点で心肺停止、直接の死因は嘔吐による窒息と推定、顎に不自然な骨折痕があり、一撃で気絶したところ追い打ちを掛けられた可能性がある。所持品には警察官募集のパンフレットがあったそうだ」
「それで」
「山中記念病院の理事は刺されていたが命に別状は無く、刺した犯人は不明。他に被害者は無く近隣での事件も無い事から狙い撃ちの可能性が濃厚。強奪された手帖は病院関係者との打ち合わせ内容の控えで、勿論、市松宮殿下に関しても記されている」
「襲撃と強奪を別に実行して、強奪犯が発覚を恐れて目撃者、あるいは追跡してきた市民を惨殺したのか?」
「それがよく分からん。理事曰く強奪犯は背の高い女性で、どうも髪は青色か何かに染められていたらしいが、殺害現状には蛍光ピンクの毛髪が残されていたそうだ。そして襲撃犯はマスクを掛けた黒っぽい服装の人物で、男性の様な気がすると……それに加えて、蛍光ピンクの髪の人物について、近隣の防犯カメラを調べたところ、青っぽい髪の人物と二人で走っている様子が僅かだが写されていた。ついでに、そのカメラの近くの別のカメラには……大柄な坊主頭の黒人の姿があった」
 エンリケは眉を寄せた。昨日ペルー人の青年から聴いた話では、彼の関与したイリーガルシェルターの住人にも、ピンクの髪の女性と、ブルーの髪の女性が居る。
「詳細な分析結果はまだ聞いていないが、広報部企画課のマイルズ・マックイーンを洗う。こいつは取材と称して外出する事も少なくない」
 エンリケは頷き、スポーツウェア姿の土谷に合わせた軽装で出勤鞄を手にした。
 早朝から出勤したところで時間外労働の手当ては出ず、傭兵である彼等は本来この様な仕事はしない。しかし、今の二人には金銭では計り知れない義務感が有った。
「土谷」
「何だ」
「もし、この協会を辞めるとしたら、次は何処へ行きたい」
 二人は建物に入るが、無機質な廊下はまだ照明が点いておらず、常夜灯が足元を照らすだけだった。
「唐突だな……そうだな、皇宮警備に志願しようか。今、皇室の護衛は外部委託されてる有様だからな……そういうエンリケ、お前は何かしたい事が有るのか」
「まだ分からない。この国の為に戦えるなら、場所は何処でもいい」
 土谷は質問の意図を訊かなかった。ただ、この一件が協会を揺るがす事件になるという事だけは想像していた。
 エンリケは警備課の更衣室で、土谷は情報管理課の事務所で装備を整え、二人は情報管理課の奥まった事務所で情報の整理に当たった。
「仮に、女子大生惨殺の下手人が、例のペルー人が証言したイリーガルシェルターの住人だとすれば、其処には福祉部保護課も立ち寄っている……もう既に最悪だが、日本語と英語を話す黒人のスキンヘッドの大男がマイルズ・マックイーンだとしたら、スキャンダルでは済まねぇな。その上、マイルズ・マックイーンは身元を詐称している疑いすらある。協会が保管する経歴と一致する情報は、公安のデータベースに残っていない」
 土谷の手元に有るのは、マイケル・ブラウソンという男の情報の写しだった。
「協会がパスポートの確認を求めてこなかったのが、此処に来た時から不思議だったが……」
「こういう事を隠す為だったのかもしれねぇな」
 マイルズ・マックイーンを名乗るあの男は、確かにジャマイカの出身で、アメリカの大学で情報工学を学んでいた。だが、それはマイケル・ブラウソンとしてであり、マイケル・ブラウソンはアメリカにおける反差別運動や黒人主権運動に関与する学生運動家であり、無政府主義を唱える団体に所属していた。
「どうする、シェルターに出入りする人物の監視に行くか?」
 問われ、土谷は歯噛みした。イリーガルシェルターの監視は必須であるが、マイルズ・マックイーンの監視も必要である。
「……エンリケ、最近入ってきた生駒の事はどれくらい知っている」
「三笠国際警備保障から来た、システムエンジニア経験のある、元警察官だとは聞かされている」
「そうか……」
「土谷」
 情報管理課職員の特権を以て庁内で調査活動を続けるべきか、危険を伴うイリーガルシェルター周辺に向かうべきか、土谷は決めかねていた。だが、警察職員の権限の一部を委任された土谷はイリーガルシェルターに張り込み、緊急時には逮捕の特権の行使が可能で、残るという選択は出来なかった。
「生駒に諜報活動を任せる。マスキングを解除し、情報をつまびらかに出来るのは彼だ……何かあれば俺は逮捕特権の行使をする、道連れにされてくれるか」
「分った」
 無防備な女性だったとはいえ、人一人をを素手で斬殺した人間と対峙する可能性がある。その時背中を任せられる相手が、土谷には他に居なかった。
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