無念と現実

文字数 1,857文字

 ――この店が燃えて周りにまで火が移ったとしたら、相手の思うつぼです。何故この国で国旗を掲げられないのか、不満に思う気持ちは分かります、よく分かります、ですが、戦うべきは貴方ではありません、俺達です。
 その店の店主はイギリス領だった香港に生まれ、二十数年前に来日し、いつか祖国に戻る事を願いながら今も日本に暮らしている男だった。其処に店を構えるようになったきっかけは、来日後に結婚したとある女性の縁で、その女性は夫の故郷の独立を願う一人であったが、遂にその日を見る事無くこの世を去っていた。店主はいつの日か祖国へと戻る事を願いながら、妻と過ごした時間を忘れられず、店を続けていたのだ。
 祖国での苦い経験は店主を頑なにさせ、暫く店を閉める事も避難する事も当初は拒んでいたが、この国を愛しながら、政権の方針に翻弄されまともな活動の出来なくなった国防部に志願する意味は無いと、軍人の道を諦め傭兵となった土谷に説得され、店主は店の中を片付け始めた。
 土谷は荷物の引き上げには時間がかかると覚悟していたが、マスクで顔を隠させ、名前を呼ばない事で身元を誤魔化していた和歌子は荷造りが早く、可燃性の高い布や植物性素材の商品、瓶が割れれば燃料となる精油や香油といった物はすぐに店内から引き上げられていった。
 店内は使い込まれた木製の什器が基調となっており、万一引火すれば瞬く間に燃え広がる。店舗の外で爆発が起こった場合でも、ただでは済まない事は明白だった。だが、消火を遮るものが無くなれば、万が一の時にも、被害は最小で済む。その考えが正しいかどうか、土谷には分からなかった。ただ、店を閉めて店内を出来るだけ空にしておけば、客が巻き込まれる事は無い。
 店の中央に据えられていたガネーシャと共に店主が自宅へと引き上げていくのを見届け、土谷は和歌子を連れて彼女の下宿先へと向かっていた。その道中、和歌子は土谷の後ろで俯いていた。
「お前の実家は国旗の掲揚は、流石にしてねえんだろ?」
「でも、ただの家じゃないんです……家は道路に面していて、お店とくっついている様な感じで……この数年間、暴漢同然の、得体の知れない連中が増えていて、なんだか凄く嫌な気分はしていましたけど……こうなるともう、何もかもが、恐ろしいです」
 車寄せで車を止めた土谷は、午後に余裕が有りそうなら連絡をすると言って和歌子を降ろし、着替えの為協会庁舎へと戻った。
「土谷、こんな時間まで公用車で何処へ行っていた」
 当直当番で駐車場の巡回に当たっていた吉田は訝しみながら問い掛けるが、土谷は表情を変えない。
「自主的な超過勤務ですよ、テロ対策の為の」
「テロ?」
「生駒さんかエンリケ・リャヌラの日誌を見ればわかるんじゃないですか? 諜報活動だって、保安部や情報管理課の仕事ですからね」
 吉田は溜息を吐いた。
「傭兵のくせに、随分な物言いだな」
「金だけで戦えるほど、俺は図太くないんで」
 情報管理課の事務所に戻った土谷は忌々しげに制服を脱ぎ捨て、長い一日が終わった事を実感する。だが、安堵は出来なかった。知り得た情報の何もかもが、あまりにも憂鬱で。
 街灯は有れど人の気配は無く、静まり返った夜の道を進んで自宅へと戻った土谷は体を洗い、ラックと一体になったベッドに身を投げ出した。風呂に入り落ち着いて眠れる事に何の不満も無いはずの夜が、本物の脅威を目前にした今はもどかしいだけだった。だが、それ以上に案じている事が彼には有った。
 ふと身を起こした彼は、一日まともな食事をとっていない事に気づいた。衝撃的な情報にエンリケを叩き起こした早朝、朝食など採る暇は無く、昼食は監視から戻る道すがらに軽食を買っただけで、夕刻から暫くはあの雑貨店の店主と品物の避難を促していた。ようやく運動量に対してまともな物を食べていないと気付いたはいいが、夜も更けていた。
 殺風景な冷蔵庫にある栄養補助食品くらいは流し込もうと立ち上がり、彼は苦笑いを浮かべた。もし、この直後に何かあって殺されたなら、最後の晩餐は間に合わせのゼリーで、石川が言う様に解剖された時には、居の残留物から銘柄まで割り出されるのだろうな、と。
 味気ない折り畳みのテーブルセットの椅子に腰を下ろし、ゼリー状の飲料を封入した容器のふたを開けた時、彼はもう一つ案じている事に思いを馳せた。
 和歌子にはこんな思いをして欲しくない、と。彼女には、これが最後の晩餐だと思う様な目を見せてはいけないのだ、と。
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