受け入れがたい現実

文字数 2,528文字

 土谷とエンリケがイリーガルシェルターとなっているマンションを監視していると、顔を腫らした女が二人、ある部屋に吸い込まれていくのが確認された。
「……あれがアポル、とサウラ、か……しかし、ありゃ相当殴られた様子だが……内ゲバか?」
 土谷は訝しみながら、二人の後ろを歩く男を凝視する。
「……刺青の男は、あれか」
 土谷が注目する男の横顔に、エンリケは息が詰まるのを覚えた。
 それは、かつてエンリケが共に過ごした男、この場でこうして見つける事など有るはずの無かった男、パブロ・クリスチャン・ガルシア・ゴメスだった。
「……もしかしたら、あれは、俺の、幼馴染の男かもしれない」
「え……」
 刺青の男に声を震わせたエンリケを前に、土谷は目を瞠った。
 その間に、刺青の男は二人の女を部屋に戻らせ、鍵をかけて立ち去っていく。
「……彼の名は、パブロ・クリスチャン・ガルシア・ゴメス。おそらく、パブロ・ガルシアと名乗っている」
 エンリケを驚かせた男、パブロ・グリスチャン・ガルシア・ゴメスは、エンリケより少し年上の、元傭兵だった。
 そもそも、エンリケは南米ペルーの、どちらかといえば貧しい側に生まれた少年だった。生まれた家は農業をしていたが、十分な収穫が有るとはいえず、産後の肥立ちが悪かった母親は事ある毎にエンリケに辛く当たっていた。
 少年時代の彼の生活は楽ではなかったが、六歳から十一年間定められている義務教育の間だけはなんとか学校に通い、英語が喋れれば少しは稼げるだろうと勉強に励んでいた。そして彼が義務教育を終える少し前、彼に警備員の仕事を勧めたのがパブロであった。
 パブロの助力を得たエンリケは義務教育を終えた後、観光客が立ち寄る事も多い歓楽街の用心棒の職に就いた。街での暮らしは安全とは言い切れず、稼ぎも十分とは言えない物だったが、其処では働き者の女性と出会い、いずれ結婚する約束もしていた。
 しかし、その幸せはある日突然に奪われた。交際していた女性は無法者に襲われ、数日後、中途半端に焼かれた死体で発見された。用心棒の仕事をしながら、好いた女性の一人も守れなかった。エンリケはその無力感と後悔に苛まれ、その悲しみから逃れる様に、生まれ育った国を離れたいという衝動に駆られた。
 出来る事なら日本に行きたい。先住民をルーツに持ち、四代前の先祖にマサヨシなる日本人が居た事から、エンリケは日本への出稼ぎを希望しているとパブロに打ち明けた。パブロは出稼ぎブローカーを探し、エンリケは日本の警備会社への就職が決まった。
 来日した当初、エンリケは日常会話がやっとの英語が喋れるだけの、取り柄のない状態だった。だが、彼が就職した京極特殊警備保障は日本でも屈指の練度を誇る警備会社で、日本の外国人部隊に優秀な傭兵を多数送り込んでいる会社だった。
 正式に就職した彼は会社の用意した訓練プログラムを受ける一方、向こう数年間の雇用契約と引き換えに会社が学費を出す形で、日本の高校で学ぶ事になった。日常会話がやっとの英語と、全く分からない日本語での生活、若者が学校に通う事が当たり前の環境に彼の精神は酷く疲弊したが、親が代々受け継いできたマサヨシというミドルネームの意味を知り、彼の意識は変わっていった。
 日本で就職してからの数年間は、深夜の建物の警備や過酷な災害現場での復旧作業に派遣されながら勉強に追われる日々だったが、言葉を身に付けるには十分な期間だった。また、彼の上司は母国語を良く知る事も語学の勉強だと、彼にスペイン語文学の原書を与えもした。
 その期間を経て、彼は二十代半ばから十年ほど、海外の紛争地帯への派遣をいくつか経験しながら傭兵として働き、地球市民運動の過激派との交戦も経験する中で、パブロと戦場で再会した事も有った。そして、戦場の緊張感の中で彼が感じた事は、国境なき世界が幸せであるはずがない、という事だった。一つの民族が一つの地域で暮らす事が無駄な衝突を防ぐ事になり、国単位で人間を管理する事が、貧富の格差を是正する事になるのだと彼は強く考える様になった。混乱を極め破綻した中国大陸に派遣された経験も、それを確信させる要因である。
 そんな彼が紛争地帯での活動から離れたのは、ある女性との出会いがきっかけだった。ペルーで失った恋人を忘れられずに居た彼だったが、とある日本語教師との出会いが彼の心を動かした。だが、彼には忘れられない女性が居て、人を殺す事も仕事の内である傭兵であるという事情から、交際はしたが結婚は一度断った。しかし、その女性はそれでも構わないと言い、籍を入れるに至った。
 そして、年齢的にも長く紛争地帯への派遣を受けられるわけではないだろうと考え、紛争地への派遣への志願を止め、公的機関への派遣を希望したところ、三ヶ国語を理解する彼は国際交流協会への派遣が決まった。
 だが、協会での仕事は彼に新たな感情を芽生えさせていた。目にする外国人のほとんどが堕落している事への嫌悪という感情を。
 彼は此処で不法に滞在し違法行為にさえ手を出す外国人や、日本に来れば仕事が有る、保護を受けられると甘い考えのまま非合法な手段で渡航する外国人を間近で見ている。その一方、そんな外国人の影響から生まれたであろう彼に対する偏見を肌で感じる機会も多い。
 事実、彼自身も貧困から抜け出したいあまりに傭兵に身をやつし、今に至っている。だが、彼は大金をはたいて得たとはいえ、正当な手順を踏み、正規の旅券を持って来日し、会社の支援も有ったが、自腹を切ってでも日本語を学ぶと決め、語学と戦闘という技術を以て生きている。日本人との結婚も、国籍を得る為の手段では無く、彼は傭兵の職を辞すまで帰化はしないと決めている。それ故、不法に滞在する外国人への嫌悪は、日増しに強くなっている。
「……パブロも同じ様に考えていたはずだ、国境を無くす事が貧困を解決しない、紛争を解決しない、と。それなのに、何故此処に居る」
 エンリケは遠ざかる男の影を見つめていた。
 土谷はこれから先、彼等と対峙する可能性がある事を憂いながら、腹をくくる時が近いと悟った。
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