包囲

文字数 1,280文字

 あの突入から丸一日が過ぎたこの日も、土谷は大量の簿書と戦っていた。
 突入の直後から翌日まで、関与した四人の傭兵は警察への説明と、本来所属している警備会社や官公庁への説明に追われ、土谷以外の三人は一日の休暇を取っていた。とりわけ吉田は、結果として協会職員を射殺している為、当面の出勤停止である。だが、土谷は簿書係長が今期の簿書廃棄を最後に退職する意向を示した為、この日も仕事に追われる事となった。
 三月末に採用されて程無い和歌子と二人で行った時には、ものの数日で運び出しから決済が終わり、破砕処分が進められていた事を思い出しながら、土谷は一人破砕処分に勤しんでいた。そして早めの昼休憩に入ったところで、保守系論客が惨殺された事件を知る事となった。
 メディアでは極右の女性評論家が殺害されたと報じられ、損壊された遺体が遺棄された各地の現場へ取材班が押し掛ける様子が映し出されていた。だが、多くの場所では警察か警察の雇った特殊警備員が押しかける取材班を追い返していた。無残に殺された被害者に対する哀悼の念のかけらも無い報道姿勢に土谷が辟易していると、彼の端末に警察からの資料が届けられる。
 その資料を開いた土谷は愕然とした。協会から遠くないある住宅の敷地内に、損壊された遺体の、それも一番見たくないはずの遺体が投げ込まれていたと記されていたのだ。詳細は伏せられていたが、断片的な情報からも、土谷はそれがエンリケと彼の妻が暮らしている家だと理解する。土谷が知る限り、エンリケは日本語教師の女性と結婚しているが、その女性は現在大学の講師である。そして、その女性は保守系の研究者としても一部で知られている。
 土谷は正午を待って食堂に向かい、完全菜食向きの軽食を取りながら内部の様子を窺う事にした。
 放火殺人未遂と自殺が起こった現場となった食堂だが、代わる施設も無く、既に多くの職員が平常通り利用していた。ただ、凛と優菜と共に昼食を採っていたアイシャの姿は無い。
 席に着いた土谷は、主に日本語か英語で繰り広げられる会話に耳を聳てる。すると、おそらくはあの女性論客の殺害に関連しているであろう会話も其処に有った。
 ――そういや、こっちでもその右翼評論家の死体が投げ込まれてたんだって?
 ――多分警備課のスペイン人の家だよ、あの辺には大学の先生やってる右翼研究者が居て、外国人の旦那が居るって聞いた事がある。
 ――へぇ、良く知ってるなぁ。
 ――前に紙の書類扱ってる部署手伝った事があってさ、名簿見て、変な苗字だから覚えてたんだよ。
 土谷は考えた。何処にでもどの方面からもスパイが送り込まれている。だが、家族まで巻き込まれるのは、何かが違う、と。
 不審に思われぬ様、土谷は頼んだコーヒーにミルクのポーションを注ごうとする。だが、やけに表面が泡立っている様に思われ、何も入れないままかき混ぜた。
 おい、まじかよ。口を突いて出そうになる言葉を飲み込み、土谷は出された軽食を凝視する。此処に信用出来る物は何も無い。土谷は泡立ったコーヒーを残し、食堂を出た。
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