面影

文字数 2,444文字

 和歌子を実家に送り返した翌日の事だった。国際交流協会から出勤停止を命ぜられている土谷は、派遣元の大和特別警備保障を仲介に引っ越し業者の手配をしていた。和歌子の部屋に有る物は殆どが生活必需品で、細々とした衣類はスーツケースを収納にしていた事からすぐにまとまり、荷造りが必要なのは調理器具やバケツと言った水回りの雑貨だけだった。
 土谷の見た和歌子の部屋は殊の外無機質で殺風景な物であったが、中には駅の書店や中心街の雑貨店で買い集めたらしい文房具や、実家から持ってきたと思しきエスニックな雑貨が有り、其処が当たり前の人間が暮らす部屋である事を彼は思い知った。とりわけ部屋を出て車に駆け込んできた和歌子のトートバッグに放り込まれていたパンダのぬいぐるみが、彼の記憶に焼き付いている。
「生活雑貨や食器の類は自宅に、解体したベッドトラック、家電は店舗の倉庫に運び込んで下さい。当日はご家族の方が在宅されているはずなので、家具と家電は指定された場所まで搬入して下さい……えぇ、支払いは依頼主に請求して下さい、請求書は私の勤め先の方に……」
 協会職員としてでも、警察の傭兵としてでもなければ、特殊警備会社の社員として依頼を受けた上での行動でもない、それは土谷自身の感情による行動だった。だが、和歌子が暫くの間土谷のスパイと同じ状態であった事は会社側の担当者も薄々気付いている様で、土谷の要望はすんなりと実現に向かっていった。
「では、よろしくお願いします」
 配送会社の担当者との通話を切り上げた土谷は、通話中に残された着信を確認する。今彼が手にしている端末は、公用と使用の中間にある物で、協会職員や警察関係者からの連絡は入らない。ただし、和歌子とエンリケは、その番号を知っていた。そして、割り込みで残された着信の発信元はエンリケだった。
 ――今夜、駅東町の貸店舗で待っている。人形の展示会の会場だ。
 個人的に会食などへ誘われた事の無い土谷は訝しみながらも、何か情報が有ったのだろうと理解する。指定されていると思しき貸店舗について調べてみると、エンリケの言う通り、球体関節人形の展示会が行われていた。其処では妖しげな人形の展示と同時に、併設された喫茶スペースの営業が行われているという。
 エンリケの仕事が終わり、彼が其処に向かっているだろう時刻に合わせ、土谷も自宅を出た。
 土谷が入った貸店舗の中は薄暗く、不気味な歪みを帯びたオルゴールの音色が流れる中に、妖しく儚げな不気味さを湛えた人形と、少しずつ朽ちていく様までが計算ずくの切り花が飾られていた。訪れる人の様子は一定せず、仕事帰りに立ち寄ったらしい身なりの女性や、明らかにこうした空間が好きそうなゴシックファッションの若者、不思議な空間に惹き込まれたらしい学生など、様々だった。
「待ったか?」
「いや」
 併設されている喫茶スペースの奥へと進んだ土谷は、エンリケの向かいに腰を下ろした。
「そうか……何かあったか」
「例の人物だが、アルカロイドを含有するヘンプの所持と販売でマークされていたらしく、確保された。リボルバーの所持も、折って訴追だろう」
「そう、か……」
 マイルズ・マックイーンあるいはマイケル・ブラウソンの情報に、土谷は眉根を寄せる。
「それと……近い内に、仕事を辞める事になる」
「え……」
 それがエンリケ自信の事だと気付いた土谷は、顔を上げた。
「政府が拘束しているイリーガルステイの移民を解放する方針を表明した」
「あぁ、飛ばし記事だと思いたいがな」
「だが、特別な在留許可はいずれ判断される……入管は怒り心頭だろうが、警察の方が先手を打ちそうなんだ」
「どういう事だ」
「強制排除部隊が組織されるらしい。まだ噂段階だが、既にジャーナリストの一部が公表し始めた」
「そうか……行くんだな」
「県警本部なら、地方公務員に準じた傭兵組織を抱えられる。表向きには通訳としてなら、審査中でも問題は無い」
「いつ頃退職の予定だ」
「今月中にも、後任のスペイン語通訳が見つかればすぐに離職する」
「つなぎの仕事は有るのか?」
「暫くは休暇を取るつもりだ。昼間の仕事が有れば受けるが、暫くは家に居たい」
「審査に響かないか?」
「どうにもならないなら、本社の訓練施設へ研修に行く。寮は狭いが、警備がある分安心出来る」
 土谷は苦笑いを浮かべた。
「トリリンガルの経験者なら、むしろ教える側に回れそうだがな……分った。最後に例の件の顛末が分かって助かった……話は、それだけか」
「俺から話す事はな……お前はどうするんだ」
 土谷は目を伏せる。
「まだ呼び戻されてはいないが、例の件がそう決着したなら、近い内に呼び戻されるだろう……ただ、俺も、別の職場を探そうと思っている」
 エンリケは訝しげに土谷の顔を覗き込む。
「俺にとっては、あれが初陣だった」
「初めてだったのか」
「あぁ、そうだ。それで……腹が決まった。この国の為に、この手を濡らす事を」
 それが何を意味するのか、エンリケには分かっていた。
「それに……俺は隠密には向いていない。手に掛けるかもしれない相手の事なんてどうでもいいのに、一人の人間がどうしようもなく愛しい。俺は誰かを駒にする仕事に向いていない」
「……そうか」
 エンリケは立ち上がる。
「暗い所は、あまり好きじゃない」
「気をつけてな」
「あぁ」
 立ち去ってゆくエンリケを見送りながら、土谷は再び展示スペースを見遣る。
 展示されている人形は総じて妖しげで、何処か不気味な生命感のある物だったが、展示台の隅に飾られていた一体は様子が異なっていた。それは市松人形の様な佇まいをした作品。確かに球体関節を備えた人形で、本来の市松人形に比べると人間らしい佇まいだったが、浴衣姿に間接が隠れ、不思議な雰囲気を醸し出していた。
 土谷はそんな人形の前に立ち止まり、人形の佇まいに生きた人間の面影を重ねた。
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