蟻の穴

文字数 1,928文字

 協会庁舎のある地域からは少し離れた工業地区の交番に一人の外国人が駆け込んできたのは、正午前の事だった。
 ――Help me.
 その外国人は何度も助けてくれと言いながら、警察官の足に縋り付いたという。そして、片言の英語で、スペイン語話者であると言うが、身分証を持っておらず、警察官は彼の名前から滞在歴を照会する事になった。
 国際交流協会に応援要請がされたのはその滞在歴の商会の最中の事、スペイン語が母国語で日本語の堪能なエンリケと、その相棒である土谷は公用車で現場へと向かった。
 土谷には気懸りな事が他に有ったが、既に和歌子は前日と同じ様にタクシーで自宅へと帰しており、その心配だけは無かった。
 警察署に到着した二人はそれぞれに行動し、エンリケはスペイン語話者の外国人の聴取に向かい、土谷は情報照会の結果を待つ事になった。
 国際交流協会から派遣された通訳だと言ったエンリケは応接室へと通され、怯えた様子で小さくなって座る若い男の向かいに腰を下ろした。
「国際交流協会、IFAを知っているか?」
 エンリケの第一声に、男は頷いた。
「俺はIFAの職員だ。お前の名前は?」
「ハビエル・ルイス・フェルナンデス」
「生まれたのは何処の国だ?」
「ペルー共和国」
「日本に来たのは何カ月前だ?」
「一年と、七ヶ月くらい前、自動車の工場で、働く為に来た」
「今も工場で働いているのか?」
 短い問いに答え続けていた青年は俯く。
「俺にはお前を逮捕する権限は無い、正直に答えてくれ」
「……言葉が通じないのが辛くて、逃げた。今は、シェルターに居る」
「役人が手配した施設か?」
 青年は首を振る。
「誰かに紹介されたのか?」
「ネームブックの友達が教えてくれた。でも、其処に居た人は、悪い人だった」
「暴力を振るわれたのか?」
 青年は再び首を振る。
「違う、違うんだ、つい三日ほど前までは、良い人だったんだ。だけど……日本の高貴な人を、殺せと言われた」
 エンリケは思わず目を瞠った。
「順番に教えてくれ、まず、そのシェルターは何処に有ったのか、其処に誰が居たのか、誰がお前にそんな事を言ったのか……」
「誰にも言わないか? もし知られたら、俺は殺されてしまう! 刑務所に入ってもいい、頼む、言わないでくれ!」
 青年は身を乗り出し、エンリケに縋ろうとする。
「落ち着け、お前の名前を明かす事はしない、とにかく教えてくれ」
 青年は辺りを見回し、声を潜めて話し始めた。勤めていた工場の寮を脱走し、ソーシャルネットワーキングサービスのユーザーから教えられた場所へ向かった事、そのシェルターに居た人物の事、脅された事などを。
 一方、身元照会の結果を受けた土谷は首を傾げていた。その青年は簡単な英語は理解しており、警察は筆記させた情報から身元情報を割り出していたが、それが正しければあの青年はまだ不法滞在にはなっていなかった。無論、就労先に変更が生じている場合は不法滞在に問われるが、形式上、その青年は現在もとある町工場で働いている事になっていた。
 土谷が廊下の長椅子に腰掛けていると、聴取を終えたエンリケが外に出てくる。エンリケと立ち会っていた警察官、そして土谷は別室に移り、あの青年が何を語ったかについてエンリケから説明を受ける。その中で話題があの襲撃計画について及んだ時、警察官は形相を変え、嘘を吐いているのではないかとエンリケを問い質す。
「嘘ではありませんよ、その件、別の情報筋から提供が有りました」
 土谷は警察官を黙らせようと口を開くが、案の定警察官は噛み付く相手を土谷に変える。
「こちらが把握している限り、こちらの職員の関与が疑われています。その情報は後程差し上げます、まずは彼の話を全部聞きませんか?」
「お前達、二人揃って嘘を吐いているんじゃあないだろうな、いくら俺がスペイン語が分からないからと言って」
「通訳の彼は京極警備保障の特殊警備班の出身ですよ」
「それが」
「ご存じありませんか? 京極警備保障は日本の所謂外国人部隊に多くの傭兵を送り出す、国内有数の練度を誇る警備保障会社ですよ。外国人であろうが、日本的な精神性を叩き込んで訓練していると、一般人でも知っていますよ」
 正常性バイアスが最も悪い形で表現されている。土谷はそれに気づくと同時に、早く庁舎に戻らせてくれと願う。
「話を続けさせてもらいます」
 エンリケは身を乗り出す警察官に言い放ち、残る事項を全て伝える。土谷はそれに続けて市松宮襲撃計画について情報を出すが、確証は無くこちら側の独自調査の結果は公安課に連絡するとの内容に、警察官は不愉快そうな表情を浮かべた。
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