言葉の無い感情

文字数 2,491文字

 アポルが行きずりの女性を惨殺した後、アポルとサウラは持たされていた発信機の情報を基に二人を探した人物によって身柄を回収され、刺青の男の家に向かう事となった。
「You should have been told not to kill, why killed her, why」
 二人の身柄を回収した男の一人、スンヒョンは二人を地下室に連れ込み、不慣れな英語で詰問しながらアポルを棒で打ち付ける。だが、アポルは彼の英語が理解出来ない。彼女は母国語の理解も不十分なまま、地球市民運動活動家に引き取られアメリカへ渡り、英語を十分に学ぶ事が無いまま日本へと連れて来られた。その為、彼女はどの国の言葉を以てしても、正しく意思疎通が出来ない。
「No, No, please stop, please!」
 サウラはやめて欲しいと懇願するが、男はそのサウラを足蹴にし、アポルを更に棒で打ち付ける。
「悪いない、悪いない!」
 激しく殴打されながらもアポルには罪の意識が無く、理不尽に暴行されているとしか思っていない。しかし、抵抗しようにも、棒で突き飛ばされてしまい、思うように動けない。
「Please, prease!」
 サウラは男に縋ろうとするが、頭を蹴り飛ばされて動けなくなってしまう。
 呻き声を上げて蹲るサウラの脳裏に、走馬灯が過る。
 サウラが生まれたのは、国民の多くが貧困にあえぐヨーロッパの小さな国だった。かつて共産党や独裁政権といった厳しい政治が行われ、自由を求める国民が血で血を洗う戦争を繰り広げたその国では、政治と民族の対立が止まる所を知らず続いていた。
 彼女はそんな国で望まれない子供として生まれ、生後すぐに遺棄された捨て子だった。赤ん坊の内は孤児院で養育されていたが、乳離れをして歩ける様になると十分な世話は受けられず、寒く不衛生な施設で同じ境遇の子供達と身を寄せ合って生きるしかなくなった。しかし、その施設からは六歳になるかならないかで出されてしまい、彼女は路上生活を強いられるようになった。
 路上に出た彼女は、年上の女の子がしていたのと同じ様に、男の人に声を掛けた。何をされるのかは理解して居なかったが、声を掛ければご飯が食べられるとだけ考えていた。だが、幸か不幸か、彼女が最初に声を掛けた男は、地球市民運動に参加する人物で、彼女はそのまま路上から小屋へと連れて行かれ、ヨーロッパの別の国で少しの間を過ごす事になった。
 男に引き取られてからの彼女は、家畜の世話や野菜の収穫に使役され、見ず知らずの赤ん坊の世話をさせられた。だが、彼女はその赤ん坊を実の弟の様に可愛がっていた。そんなある日、彼女を保護していた男は当局に拘束され、一人になった彼女は異国で幼い義兄弟を抱えたまま、物乞いをする様になる。
 生まれた国よりはまだ少し暖かかったその土地で、彼女は僅かに覚えた言葉だけを頼りに物乞いをした。だが、その生活も長く続かなかった。彼女が抱えていた弟は時々体を震わせて返事をしなくなっていたが、ある日、遂に息をしなくなってしまった。彼女は弟が癲癇の発作を起こしていた事も、弟が動かなくなった事が死んでしまったのだという事も理解出来ず、ただ幼い子供の死体を抱えて泣き叫んでいた。そんな時手を差し伸べてくれたのが、とあるボランティアだった。
 彼女を助けた女性はストリートチルドレンの支援をしている団体の職員で、その国の言葉を話せないサウラは言葉が不自由な障害児だと判断し、アメリカへと養子に出した。訳が分からないまま、また別の国へと渡ったサウラは、アメリカの裕福な夫婦に引き取られ、暫くの間は温かい食事と綺麗な寝床を手に入れる事が出来た。しかし、彼女の不幸は終わらなかった。
 それは暖かいある日の事、サウラは庭のブルーベリーが欲しくなり外に出てしまい、そのまま人さらいに拉致され、南米へと売り飛ばされてしまったのだ。養親は必死に彼女を探したが、遂に再会する事は無かった。
 売り飛ばされてしまったサウラは年端もいかない少女ながら、売春婦としての仕事を強要された。しかし、当局も子供の売春行為は発見次第取り締まっており、警察官と支配人が押し問答をしている間に彼女は売春宿から逃げ出した。だが、言葉の分からないサウラは助けを求める事が出来ず、大通りの片隅で泣いていた。
 絶望に泣く事しか出来なくなっていた彼女に再び手が差し伸べられたのは、明け方の事だった。とある麻薬の売人が彼女に同情し、彼女を家に連れ帰ったのだ。サウラは数日間、麻薬を売るその男の家で過ごし、ある女性に引き渡された。それは地球市民運動に加わっていた女性で、彼女はサウラを連れ、日本へと向かった。
 非合法の手段で入国したサウラは、過激な地球市民運動活動家の庇護を受けながら、明るい内は換金出来るごみを拾ったり、プランターで育つ野菜を収穫して過ごし、陽が暮れると言葉を教わった。其処で出会ったのが、アポルと呼ばれる少女だった。
 倒れ込んだサウラは、手の届きそうな場所に、カッターナイフがある事に気づく。思う様に体が動かせない事をもどかしく思いながらも、アポルを助けたい一心で手を伸ばし、彼女は声を張り上げた。
 気力だけで体を起こし、スンヒョンの背に少し刃の出たカッターナイフを突き刺した。スンヒョンは痛みにアポルを殴打する手を止める。
「サウラ……」
 アポルは獣の様に叫びながら、スンヒョンの顔面にカッターナイフを打ち込む。
「サウラ!」
 アポルはサウラを止めようとした。だが、もはや錯乱状態のサウラに自制心は無く、衝撃によろめいたスンヒョンの体に覆いかぶさるまま、首を絞め始める。
「Stop, stop!」
 アポルは痛みも忘れ、サウラの体をスンヒョンから引き離した。
「なかま、スンヒョン、なかま」
 アポルに抱き付かれ、サウラは漸く我に返る。
「What are you doing!」
 地下室の様子を見に来た刺青の男の怒号が全てを終わらせたのは、それからすぐの事だった。
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