挨拶

文字数 1,959文字

 和歌子の退職は正式に決定された物ではないが、協会での仕事が続けられない事は明白だった。
 土谷の出勤に合わせて協会庁舎へと向かい、間もなく退職する簿書係長の稲村に謝辞を述べ、和歌子の任用を任されている情報管理課長に近々警察に戻る事になりそうだと挨拶を済ませた。そして土谷に伴われて最後に尋ねたのが、警備課の控室だった。
 警備課の業務から外され、協会から支給された防具一式も返却させられている土谷が控室に顔を出すと、殆どの職員は怪訝な表情を浮かべていた。
「近々警察の業務に復帰する予定で、こちらへの出勤はこれが最後になるかもしれないんでな、挨拶回りだ」
 土谷の話を聞いたエンリケは場所を変えようと言い、適当な空き部屋に入り明かりを点ける。
「えっと……おそらく、こちらに来るのは、今日が最後になるので……先日は書庫で助けていただいて、その時のお礼も、改めてさせていただきたくて……あの時は、本当にありがとうございました」
 頭を下げる和歌子に、エンリケは首を振った。
「顔を上げて下さい、御田川さん。俺は危険な事から誰かを守るのが仕事です」
「リャヌラさん……」
「貴女の平穏な暮らしを祈っています、お疲れさまでした」
「リャヌラさんも、どうか……息災で居て下さい」
 エンリケは穏やかな眼差しで和歌子を見た。
「ありがとう……それでは、これで」
 会議室を出ていくエンリケに、和歌子は再び頭を下げる。
「……土谷さんとお会いするのも、これが、最後なんですかね」
 エンリケの去った室内で、和歌子は呟いた。
「此処を辞めるって事は、まず、警察に戻る事ですけど……」
「そうだな……俺は本部の公安課に雇われた傭兵だし、もう会う事は無いかもしれない……何も知らずにこんな場所に放り込まれて、危ない目にも遭って、こんな事にまで巻き込まれて……それでも君は良くやってくれた。俺は君の事を見くびっていた、こんなにも聡明で、思慮深い人だと思っていなかった……その事、謝らせてくれ」
 あの祭りの日に見たのと同じ、切れ味の良い刃の様な鋭さの中に一抹の悲しさを湛えた瞳が和歌子を捉える。
 和歌子は土谷を見上げて首を振った。
「そんな事、言わないで下さい……私は……貴方の為に働けたなら、それでいいんです」
 和歌子はそう言って、全てはきっと夢だったのだと自分に言い聞かせた。
「俺も、君と一緒に働けて、幸せだったよ」
 土谷はそう言って目を伏せようとするが、扉の向こうの物音が、彼の集中力を奪い去る。
「下がれ!」
 土谷は和歌子の前に躍り出ると同時に、私物として持ち込んでいる大型のコンバットナイフを引き抜いた。彼が聞いた僅かな物音は、扉が不躾に開けられる音。そして、彼の勘は的中していた。
 扉を開けたその人物の手には、小刀が握られていた。
 土谷に振り下ろされたその一撃は、刺突に耐え得る様に研磨されたナイフの切っ先に突き刺され、呻き声に代わる。だが、もう一本の腕が、土谷に襲い掛かった。しかし、土谷に刃物で襲い掛かるのは失策でしかなかった。土谷は冷静にナイフの軌道を避け、男の肩を切り付け、返す刀で最初に土谷へと襲い掛かった腕の主、アンリエッタ・デュポンの肩へ力任せにナイフを突き刺した。
 一部始終を間近で見せつけられた和歌子は、土谷がナイフを手放した事に肝を凍らせたが、血脂で滑って斬れなくなる前に、重量に任せた刺突でナイフを使い切るのが土谷の目的だった。ナイフの予備は、複数装備しているのだ。
 手負いの男が振り向き様に土谷の懐へと突撃した時には、切れ味の良い新しいナイフが男を迎えた。明らかな殺意に手加減を捨てた土谷の、冷徹な一撃と共に。それは物を断ち切る方法を熟知している土谷らしく、無慈悲に首筋へと向けられるまま、瞬く間に赤い飛沫を吹き上がらせた。
 斬られた瞬間、男は自分の身に何が起こったのかを把握出来なかった。だが、深々とナイフを突き立てられて苦悶していたアンリエッタ・デュポンは耐え難い苦痛の中にもその状況を把握し、再びナイフを握りしめた。これは致命傷ではないのだから、と。
 獣の様な咆哮を張り上げ、アンリエッタは土谷の腹にナイフを突き立てようとした。だが、感情任せな一撃は容易く見透かされ、男の首を裂いた刃物を腹にめり込まされた彼女は倒れ伏した。尋常ではない痛みと制御不能な神経反射のまま、アンリエッタの意識は落ちる。
 土谷は返り血を浴びたまま三本目のナイフを抜き、和歌子の傍に歩み寄る。
「絶対に手出しはさせない、このまま控室まで逃げるぞ」
 和歌子は震えた様に頷き、土谷に従って部屋を出る。
「ひぃ」
 和歌子の小さな悲鳴に土谷は振り返る。その視線の先には、マイルズ・マックイーンが居た。
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