広報部企画課のある朝

文字数 2,005文字

 そう背の高くないビルの立ち並ぶ街の幹線道路の中央にあるのは、ひたすらに続く平面を走る路面電車の線路だった。
 地方都市とは言え、朝夕の一時だけは雑踏と化す中心部の駅の地下通路を脱した鈴木凛は、広いバスターミナルに乗り入れる路面電車に駆け込んだ。
 通学する学生の方が多い郊外へ向けて走る便は、息が詰まるほどの混雑を毎朝繰り返しながら、六車線の道路を抜け、狭い路地を掻き分ける様に走る。線路上に屯する浮浪者達を警笛で追い払いながら。
 そんな列車は学生達が一様に降車した後も、最後の停留所へ向けて走り続ける。官公庁のある中央部からは少し離れた、とある施設に向かう数人の職員が残っているのだ。凛もその一人として、最後の停留所から白く無機質な建物へと向かった。
「おはようございます、リン」
 凛が特殊な図形の浮かぶタッチパネルを操作していると、大柄な坊主頭の男が後ろから声を掛けた。
「おはようございます、マイルズさん」
 凛はぎこちない笑顔で返しながら、セキュリティを解除し、職員証を翳して扉を開ける。彼女は既に三ヶ月間このシステムを使っているが、どうにも慣れずにいた。
「あなたが此処に来て、そろそろ三ヶ月ですね」
「そう、ですね……あっという間でした」
 入り組んだ構造の最深部を目指し、冷たく白い廊下を進みながら、三ヶ月経っても慣れた気がしないと、凛は内心溜息を吐く。
「おはようございます」
「おはよう、リンちゃん」
 女子更衣室に入ると、笑顔を浮かべた女性が一人口紅を直していた。
「素敵ですね、その口紅」
「ありがとう。明日は大事なプレゼンだし、昨日フンパツしたの」
「そうなんですね……私も、明日は気合入れないとね……」
 凛はロッカーを開けて通勤用のパーカーを脱ぐと、薄いカーディガンを取り出した。
 鞄を押し込む棚の上には、ハンガーラックに掛けられた厚手のスカーフが一枚行儀よく鎮座している。凛は何度かそれを使った事があるが、綺麗に使えていたかといえば、そうでもない。
 またハウツー動画とにらめっこなのかと凛が小さく溜息を吐くと、更衣室の扉が開き、明るい声が響いた。
「おはようございます、優菜さん」
「おはよう、リンちゃん……ん、そういえば、明日プレゼンだったわよね」
 山本優菜は開けっ放しにされた凛のロッカーを覗き、スカーフを見つける。
「ヒジャーブ、それでいいの?」
「え……」
「観光誘致の相手先は物凄く厳格なイスラームの人達でもないんだし、もっとお洒落にしたら?」
「でも、これしか」
「だったらさ、帰りに買いに行きましょ? 駅ビルの地下街に雑貨屋さんがあるじゃない」
「そ、そうですけど……」
「じゃあ決まりね」
「え、あ、だ、だったら」
 優菜は首を傾げる。
「だったら、髪のまとめ方も教えてくれますか? その……外じゃ、こう、聞き辛いですし」
「確かに、ムスリマにヘアアレンジを聞こうとしたら、どっちかのお家にでも行かなきゃとか思うわよね。いいわよ、髪留めも一緒に買いましょうね」
 優菜は慣れた様子で通勤鞄をロッカーに放り込んで福祉課のオフィスへと向かい、凛も支度を整え、広報課のオフィスへと急いだ。
 始業時刻となり、オフィスの電子機器が一斉に起動する中、凛は起動したばかりの端末を手に衝立で区切られた会議スペースに入る。彼女が所属する広報部企画課では、イスラーム文化圏を対象とした観光誘致と留学促進のキャンペーンを企画しており、その説明会を主導するのが彼女を含む四人のチームである。中でも彼女は女性の社会進出が一層進むイスラーム文化圏へのアピールの為、インドネシアから来日しているアイシャと共に壇上に上がる大役を任されている。そして、そこで掲示する資料の作成が、彼女の本業である。
「いかがですか?」
 完成品のスライドショーの実演を終え、凛はチームメンバーにその感想を求めた。
「問題ありません。スライドもよく出来ています。人物のイラストを使わなくても、成立しています」
「よかった……」
 マイルズの言葉に、凛は胸を撫で下ろした。此処に勤める前にはアニメ風の人物画を用いた動画や立体画像の作成をしており、人物や動物のイラストを使わないスライドの作成はこれが初めての事だった。
「とてもクールね。色が鮮やかで、とても見やすいわ」
「ありがとうございます……ミーカさんはどうですか?」
 アイシャの言葉に凛は少しぎこちなく笑いながら、俯きがちな青年に声を掛ける。
「え……問題、無いと思います……」
「そう、ですか……」
 沈みがちなミーカの様子に凛は戸惑いを隠せなかったが、マイルズは助け舟を出す様に話題を切り替える。
「資料はこれで完成です。これから会場の準備を始めましょう」
 マイルズの言葉を号令に、一同は広報部のオフィスから会場となる大会議室へと向かった。
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