目印

文字数 1,229文字

 早朝の住宅街に、絹を裂く様な悲鳴が木霊した。
 それは早朝六時過ぎ、庭に出た飯塚聡美が目にしたのは、数日前から行方が分からなくなっていた親友で、保守系論客の一人である檜山綾花の死体の一部だった。
 妻の起床に合わせて無理やりに起きていたエンリケはその悲鳴に眠気を吹き飛ばされるまま、聡美が立ち尽くす庭先へと駆け出す。
「警察を呼べ、俺は外に出て、人が近付かないようにする」
 聡美は震えながら頷き、居間の電話機に手を伸ばした。
 警察は住宅街に入る手前でサイレンを切り、エンリケに誘導される格好でその庭先に規制線を張る。周辺の捜査を行う警察に、聡美は申し訳程度に設置していた防犯カメラの存在を告げたが、防犯カメラは何かを投擲されたことによって壊されていた。
 庭先に投げ込まれていた遺体を収容し、壊れた防犯カメラを回収した警察が引き揚げたのは、聡美が出勤する時刻を大きく超えた頃の事。聡美は勤め先の大学に事情を説明し、数日間の休暇を申し出た。幸いにして、十月からの後期までは少し時間があり、資料作成などは自宅でもこなせるものだったが、大学側は休暇を許可する代わりに、無期限の出勤停止を言い渡した。
 どういう事かと受話器越しに詰め寄った聡美に返されたのは、聡美の存在がテロを誘発するとの言葉。大学側は保守系の国境維持主義者と革新的な国境撤廃主義者の争いに巻き込まれる事を恐れたのだ。
 電話が切られると同時に、聡美は居間の電話台の前で泣き崩れた。元より革新主義的な論調が強く、保守や愛国といった思想の強い教員は出世しないと噂される様な大学だったが、保守的な思想の強い聡美を排除する姿勢は、彼女には言論弾圧と同じ意味だった。本来、自由闊達な議論が許されるはずの最高学府の権威が失墜した瞬間、彼女は卒業した母校に果てしない失望を抱いた。
 傍でやり取りを聴いていたエンリケは何も言わずに聡美を抱き、少しばかりの時間が筋てようやく聡美は落ち着きを取り戻す。
「……あなた、時間は、大丈夫なの?」
「え?」
「横田先生の所へ、書類を頼むんでしょ」
 エンリケは眉根を寄せた。この数日の出来事で考えを改めた彼は帰化申請を出す事を決め、休暇を得たこの日、書類の取り寄せを依頼しようとしていたのだ。
「だが、今は君を一人に出来ない」
「大丈夫……お母さんに来て貰うわ。一応、今日まだ、警察の方も近くを見て回っているし、むしろ、今日なら、大丈夫よ」
 エンリケは少しばかり逡巡し、分かったと言って聡美を立ち上がらせる。聡美の両親は、彼女が今暮らしている家と背中合わせになる様に隣接しており、彼女の母親がこちらの家に来るまで時間は掛からない。
 聡美は携帯電話を取って母親に連絡を取り、夫が帰宅するまで在宅していて欲しいと頼む。一方のエンリケは心許ないと思いながら無精ひげもそのままに家を出て、警戒にあたる警察官の脇をすり抜けながら国際弁護士を擁する法律事務所へと向かった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み