届かない手

文字数 1,835文字

 協会庁舎が地獄と化してから一夜が明け、土谷は和歌子に、自宅に行ってもいいかと連絡を入れた。和歌子は事件の事を既に知っている様子で、お待ちしていますと言った。
 幸いにして土谷にあれ以上の叱責は無く、むしろ、彼が来ない事を上司は望んでいる様子だった。その事も有り、彼が定刻に出勤しない事に問題は無かったその朝、土谷は和歌子の部屋に入った。
「無駄に椅子は二つあるので、座ってて下さい」
 折り畳みの簡易な机と椅子に、少し頑丈そうな棚と、収納が一体になったベッド。和歌子の暮らす部屋もまた簡素な物だった。だが、土谷には棚の下段にむき出しで置かれた旅行鞄が、何処と無く奇妙に見えていた。
「……あのでかいスーツケース、収納替わりか?」
「えぇ……いつ、また戻る事になるか分かりませんし、この辺り治安が悪くて、お買い物はあまり行きませんし、通販も、受け取りが怖くて実家から二重梱包でまとめて送ってもらってる有様なんです。だから、出来るだけ片付けておきたくて」
 和歌子は白いマグカップに紅茶を淹れて土谷に差し出した。
「それで、わざわざ此処にいらしたって事は……」
 土谷は真剣に和歌子を見据え、口を開いた。
「報道で知ってるだろうが、昨日、企画課の鈴木凛が会計課のセザール・リベルジャンに燃料を掛けて火傷を負わせ、その場で自殺した」
 和歌子は眉根を寄せる。
「それと、お前には何も言わなかったが……一昨日、無理矢理帰したのは、警備課に警察から出向していた石川という男が殺されたからだ」
 和歌子は目を瞠り、土谷を凝視する。
「鈴木凛は石川さんを慕っていて、石川さんを殺された事に対する復讐としてセザール・リベルジャンを襲撃し、後を追う様に自殺した……とりわけテレビなんかじゃ、極右のテロみたいな扱いだろうけど、実際は好いた男を殺された女が正気を失っただけだ。確かに彼女は保守的ではあったが……そんなもん、後付けだった」
 和歌子は少しの間紅茶の入ったカップを見つめ、口を開く。
「……あの大人しい女の子が、其処まで壊れてしまう事が、なんだか、不思議です……それで、その話以外にも、私には話が有るんですよね……極右と言われるなら、私だって、大概ですから」
 顔置上げる和歌子に土谷は頷いた。
「まだ、お前が聞いてしまったあの物騒な一件は片付いていないし、女子大生惨殺の件も、どうもこっちに関係が有りそうで片付いちゃいない……暫くは自宅待機してもらう事になるが、金は大丈夫か」
「まぁ、いざとなれば、実家に帰りますけど……」
「そうか。それと……俺がクビになるとか、俺の身に何かあった時には、お前は即日元居た警察署に復帰する事になる。勿論、一日や二日はこの部屋を引き払うのに休暇を取ってもいいが……ロッカーの中に残してある物や、協会に返す必要のある物は何か持っているか?」
 和歌子は少し思案し、ロッカーキーを借用している事、ロッカーに自前のパスケースがある事、ネームタグは協会に返す物である事を伝え、今現在ロッカーに残している物は基本的に消耗品であり、最悪は廃棄されてもいいと言った。
「そうか……それじゃあ、ロッカーキーを貸してくれるか?」
「え?」
「荷物を引き払ってきてやる。もしかしたら、お前の出勤が無いまま、俺は協会をクビになるか警察に呼び戻されるかもしれない。パスケースは備品を借りて、鍵はロッカーに入れておく、それでいいか?」
「え、えぇ……」
 言って、和歌子は通勤鞄から外したロッカーキーを土谷に手渡す。
「ところで……買い物に行きたいとか、何かあるか?」
「え?」
 ロッカーキーを受け取った土谷は唐突に和歌子へ尋ねた。
「今日は出勤使用がするまいが勝手だと言わんばかりの調子でな……自分の車を出してきたんだ、そこら辺のスーパーかコンビニ程度なら、付き合ってやるぞ」
 和歌子は目を瞬かせて不思議そうに土谷を見ていたが、それじゃあと言って鞄を掴んだ。
「暫く分の食料を、また買い込みたいです。お金も下ろしたいですし、つまらない物とは言え、荷物も多分其処の集荷センターに来てます……其処のスーパーに行ってくれますか?」
「あぁ、分かった。車は少し離れた所に置いている、車寄せまで持ってくるから、玄関で待ってろ」
「お願いします」
 土谷は遂に紅茶に口をつけないまま、和歌子の部屋を出てゆく。その様子に彼の傭兵らしさを垣間見ながら、何処か虚しさを覚えていた。
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