決意

文字数 1,628文字

 乳飲み子を連れて国をまたぐ移動をする事は難しい。その事実を前に、聡美は帰国を決断した。それは日本で桜の蕾が綻び始める頃の事だった。彼女の親友をはじめ、保守系論客を殺害したとみられる集団はまだ壊滅していない状況だったが、彼女は台湾を離れ、博多の港から母親の実家がある広島へ向かった。
 すべては、もうすぐ生まれる愛する夫との子供の為に。
 聡美が日本を脱出してからというもの、白鳥首相爆殺に端を発した情勢の混乱は著しかった。特に二重橋前暴動虐殺事件や国防部情報科准尉による告発によって国民感情は急速に悪化し、政権与党だった平和民衆党議員は総裁に立候補する事を恐れていた。総理大臣になれば、暗殺どころか白昼堂々に殺されかねないと考えていたのだ。
 結果的に平和民衆党の衆議院議員、小田太郎が意を決した立候補した事で事態は収束を迎えると思われた。だが、小田新総理は就任するや否や国会の解散を宣言した。解散すれば敗北しか未来の無い総選挙だったが、平和民衆党の議員達は内心では安堵していた、これで政権与党が後退すれば、自分たちの身の安全は守られる、と。
 外国人や国境撤廃を望む無政府主義者による暴動が顕在化する中での選挙は不安も有ったが、年末に駆け込みで行われた総選挙は機関銃を携えた傭兵達の警備によって無事に開票作業を終え、大勢の予想通り、前政権与党の自由国民党が勝利した。
 しかし、同時に全く無名だった極右政党の日本再興党から多数の当選者が出た為、自由国民党は単独過半数に至らず、日本再興党との連立政権を余儀なくされた。この事はナチ党の台頭を許したかつてのドイツを彷彿とさせ、保守論客からも多くの不安が唱えられる事態を招いた。
 海外から投票した聡美もまた、極右政権の誕生と過激な人種差別を警戒していたが、政権交代によって暴動の鎮圧が強化された事は否定出来なかった。また、法務省による帰化申請の認可や不法滞在者の収容施設の整備に問題は無く、非難する要素は無かった。何より、彼女の夫はその混乱の最中に日本国籍への帰化を認められていた。

 聡美の夫エンリケは日本国籍への帰化を申し出た直後、退職を控えていた国際交流協会で銃撃を受けて負傷し、暫くの間所属する特殊警備保障会社の本社へと戻り、怪我の回復と事態の収束を待つ事になった。その間には白鳥首相爆殺や、おそらく協会支部で共に活動していた吉田と思しき国防部情報科准尉による告発が行われ、彼の現場復帰は機関銃を携えての投開票警備だった。
 政権交代後、エンリケは警察公安課への派遣が決まり、白鳥政権が解放した不法滞在者の多くが行き着いているとされる街で警備活動に従事する事となった。新政権は悪質な不法滞在者に対する超法規的措置を黙認し、警察も半ば暴力的な手段を以て治安維持に当たる様になった事から、傭兵部隊への非難も高まってはいたものの、予測不可能な個人単位でのテロ行為や暴動を抑止する為には仕方ないとの見方も有った。
 だが、外国人であるエンリケはその擁護を受けられているとは言えない状態だった。正規の手段で以て来日し、国防の傭兵部隊に参加し、今は日本の警察の傭兵として任務を遂行しているにもかかわらず、外国籍の人間に同情的なのではないかと疑念を抱かれる一方、彼が身柄を拘束する外国人からは、同じ外国人が何故自分に牙を剥くのかと抗議された。
 新天地でも国籍の違いに悩まされながら新年度を迎える頃、そんなエンリケに朗報がもたらされた。この混乱の直前に申請した日本国籍への帰化が認められたのだ。これにより、彼は入国管理局の傭兵部隊への志願が可能になり、随時募集されている通訳兼任の傭兵として彼は警察から新たに入国管理局へと派遣される事となった。しかも、それは少し前に帰国を決意した妻の郷里にも近い場所だった。とは言え、家族と過ごす事は叶わなかった。その土地の治安が正常化するまで、彼の仕事は終わらないのだから。
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