小さな歪み

文字数 2,877文字

 出勤直後の騒動もあり、傭兵達の制服の洗濯と整理だけで昼も過ぎてしまった和歌子は保安部の事務所に戻ろうとしていた。その道すがら、普段は締め切られているはずの会議室の小窓から明かりが漏れている事に気付く。彼女は立ち止まって聞き耳を立てるが、話し声は無く、空調が機能している様子も感じられなかった。
「こんにちはー」
 彼女は扉を叩きながら声を掛けてみるが、返事は無かった。
「何方か居ますかー?」
 何事も無い風に繰り返し尋ねても反応は無く、彼女は引き戸を少し開け、ありえない光景に目を疑った。
 足が床に付いていない人物が居たのだ。
 これは駄目なあれだ。和歌子自身はっきりとそれを言葉にして考えはしなかった。だが、それが何を意味しているのかを既に理解して居た。
 和歌子は業務用端末の画面から、保安部警備課へ直通の連絡を選ぶ。
「保安部情報課簿書の御田川です。四階大会議室に来て下さい、多分、死んでます」
 至極曖昧な状況説明を受けたのは、例によって戻って来たばかりの土谷だった。彼は彼女の言葉から何かを察し、すぐに行くと言って待機していたエンリケを伴い、四階へと駆け上がった。その土谷の脳裏に有ったのは、あの幽霊の様な青年の事だった。
「大丈夫か」
 駆け付けた土谷は和歌子に問い掛けた。
「ドアだけは触りましたが」
「じゃなくて」
「中は、大丈夫じゃないです、多分」
 土谷は表情を険しくし、扉と和歌子を交互に見る。
「簿書の事務所に戻ってろ」
 和歌子は頷き、足早にその場を後にする。
 土谷は和歌子の後姿が遠のいた事を確かめると、エンリケと顔を見合わせた。そして頷き合い、不気味な静寂を湛えた室内と廊下を隔てる引き戸に手を掛け、状況を確認する。
「こりゃひでぇ……」
 土谷は必要以上に足跡を付けぬ様、最短距離で直線を進み、宙に浮いた手首を掴んだ。
「警察に連絡しろ。手に負えん」
 エンリケは状況からしてそうであろうと感じており、何の疑いも無く外部への連絡に端末を設定する。
 土谷は宙に浮いた背中に手を合わせ、会議室の中を見渡した。明日の説明会の為、資料や飲料が整然と並べられた机の無機質な配列が、ただ広がっていた。
「……なんで、選んじまったんだよ、こっちを」
 土谷は来た道をそのまま引き返し、エンリケは扉を閉める。
「広報部企画課のフィンランド人だ。今朝、書庫近くのごみ置き場で項垂れていた」
 エンリケは土谷の顔を見た。
「せっかくに日本に来たのに、なんでハラル認定をどうこうしなきゃならんのかと言っていた。本人は、日本が好きなただのオタクだったんだが……どうしてこうなっちまったんだろうな」
「保安部にはなんと説明する」
「情報課長に事故があったと伝えてくれ、あの人なら警察沙汰でも文句は言うまい。ついでにそっちから適当に増援を頼むとも」
「了解」
 エンリケは土谷の指示通り、保安部情報管理課の責任者に警察の臨場が必要な事故が起こった旨を伝え、現場保全の為に二人ほど増援を派遣して欲しいと告げる。だが、何の遠慮もせずにサイレンを鳴らして急行してきた警察車両が協会庁舎の敷地に到着するまで、時間は掛からなかった。
 土谷は到着した警察官に対して状況を説明し、第一発見者が別に居ると伝えた。それを聞いた警察官はすぐに保安部情報管理課の一角にある簿書係の作業部屋に向かい、和歌子に事情の説明を求めた。
 和歌子は警察官に対し、明かりが点いたままで空調を使っている様子も無い部屋を不審に思って扉を開けたと証言し、中には入っていないといった。それを問い詰められたなら、直感的に嫌な感じがしてそうしたのだと言おうとした。だが、彼女の所属が保安部で、彼女が警察から出向した職員であるという事情が、その問いを省略させていた。
 事情聴取に当たった警察官は協力への感謝を形式的に述べ、足早に事務所を出て行った。
「大変な目に遭ったわね……今日はもう帰っていいわよ」
 和歌子の上司に当たる保安部情報管理課簿書係長の稲村は、警察官と入れ替わる様に事務所へと戻り、神妙に座る和歌子に告げる。
「そうですね……申し訳ないですけど、そうします。明日は出ますから……お先に失礼します」
 和歌子はロッカーから弁当箱を入れた手提げ袋と日除けのパーカーを取り出す。しかし、一階の出口ではなく、あの四階に向けて階段を進んだ。
「あ……」
 三階から四階へと向かう階段で、和歌子は土谷と出くわした。
「どうした、洗濯室なら向こうから」
「じゃなくて……土谷さん、居るかなと思って」
 二人は顔を見合わせる。
「……誰がお亡くなりになっていたのかも、分からないのは、ちょっと、気分悪いですし」
 土谷は溜息を吐いた。
「こっちに来い」
 言って土谷は階段を降り、半地下になっている地下一階にある保安部警備課の休憩場所に和歌子を案内する。
「座っていいぞ、たいして人はこねぇからな」
 和歌子が武骨な合金製の折り畳みテーブルセットの椅子に腰掛けると、土谷は自動販売機で冷たい苺風味のココアを一つ買う。
「これでも飲め」
 苺牛乳にココアを混ぜたのか、ココアに苺牛乳を混ぜたのか、今一つ判然としない液体からは、苺の香り付けがされたチョコレートの香りがしていた。
「金ならいい」
「……それじゃ、ありがたく頂きます」
 容赦なく流入する熱い外気と、館内の奥から流れ込む冷えた空気が混ざり合う空間。混ざり合えば中庸になって本来の意味が失われた空気は、和歌子が口にした飲み物と似ていた。 
「……仏さんは広報部の職員だった」
 腰掛けた土谷は徐に口を開いた。
「日本のサブカルチャーが好きで、留学して、そのままこっちでこんな所に就職して……学費の返済もあって、辞める事は出来なかったらしい」
 和歌子は顔を上げる。彼女にも、まだ学費の借金があった。
「……それにしても、悲しいですね。せっかく、大好きな国に、来れたのに」
「あぁ、悲しいよ。そんな大好きな国で、何故か別の文化圏からやってくるイスラム教徒の為に働けと言われたんだ。よりによって、彼の大好きなサブカルチャーと一番相性の悪い文化圏を相手にした仕事だ……信教は自由だが、この国にはこの国のやり方って物がある。仕事着のパーカーに熊がぶら下がっていようが、そりゃこの国の文化だからな」
 土谷は和歌子のパーカーの、中途半端に上げられたジッパーの金具につけられたマスコットを見遣る。
「くまじゃないです、これ、ねこです」
「は?」
「よく見て下さい、耳が三角です。くまなら半円です」
 土谷は乾いた笑い声を上げた。
「そうか……ほんの少し違えば、また何か違ったのかもしれねえが、厭な事があるもんだ」
 土谷は立ち上がる。
「ただ、見つけたのがお前で、連絡を受けたのが俺だったのが唯一の救いだろうな……気を付けて帰れよ」
 事務所へと戻る土谷の背中を眺めながら、和歌子は眉根を寄せた。
 此処は、この世の地獄かもしれない、と。
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