保安部の憂鬱

文字数 3,445文字

 協会庁舎から少し離れた場所にある単身者向けのマンションを出た御田川和歌子は、いつも通りに商店の並ぶ通りへ足を踏み入れようとして眉を顰めた。内心では舌打ちをしながら踵を返し、交通量の多い道路に面した歩道へと進む。
 彼女が目にしたのは、テロ対策の警戒に当たる重装備の警察官と、外国出身と思しき浮浪者が小競り合いを繰り広げていた光景。今日日さして珍しい光景でもなく、その脇を通り過ぎる市民は少なくないが、彼女は近付きたくなかった。
 そんな感情と行動を、我ながら滅茶苦茶だ、と、彼女は自嘲する。彼女が勤めているのは、国際交流協会、戦勝国の集団たる国連の権威が失墜した後に生まれた、国境なき世界の平和を目指す団体である。だが、彼女は国境なき国際平和など有り得ないと考えていた。現に、入国管理が破綻を来した今、あの小競り合いは日常茶飯事となり、国内の治安は悪化の一途を辿っているのだから。
 彼女は致し方なく協会の正面から敷地に入るが、其処でまず目にしたのは、大柄な黒人男性の姿だった。
「おはようございます、ミズ……」
 庁舎から出てきた企画課のマイルズは和歌子に声を掛けるが、彼は和歌子の名前を覚えておらず言葉を詰まらせる。和歌子はそんな背の高い黒人の前を、小さな会釈を残して通り過ぎてゆく。
「そういえば……彼女の名前、なんだったかしら。時々見かけるんですけど……」
 マイルズに同行し、説明会の物品調達に出ようとしていた凛は首を傾げた。
 一方、庁舎の裏手に辿り着いた和歌子は指紋認証を経て、白く入り組んだ廊下へと進む。
「今日はまた洗濯か?」
 和歌子と出くわした土谷は挨拶に代え、スカート姿の和歌子に問い掛ける。
「半分は書庫の整理です。警備に出る人が多いので、お洗濯は殆ど毎日してますが……土谷さん、出し忘れは無いですよね、いつも後出しで後回しですけど」
 和歌子もまた挨拶を省き、不服げに土谷を見上げた。
「多分大丈夫だ」
「そうですか……それより、シリコンタグがどんどんくたびれてしまっているの、どうにかなりませんか? お上は私達に予算を出す気は無いでしょうけど……どれが誰のだか分からなくなっても、責任取れないんですけど」
 和歌子は肩を竦めて見せ、何とかしろと無言の圧力を重ねる。
「あー……それだったら、本社の方に言ってくれ」
「ちょっと、私は」
「文面だけ作ってくれたら後は俺が送信しておく、書けたら俺のメールボックスに入れておいてくれ」
「はぁ……」
「じゃあ、今日も気を付けろよ」
 土谷は和歌子が入ってきた通用口へと歩き出す。和歌子は面倒がまた増えたと溜息を吐きながら、仕事場へと向かう。
「おい!」
 無機質な老化に反響する怒号が、和歌子の向かい側から発せられ、苛立たしげな足音が彼女の目前に迫る。
「その服装は何ですか!」
 和歌子の前に立ちはだかる男は、第一釦の外れた彼女のブラウスの胸倉を乱暴に掴み上げた。
 和歌子は咄嗟にその腕を掴み、引き寄せた刹那に男を突き飛ばす。だが、男は執拗にブラウスを掴んでおり、その体は離れない。和歌子は怒声を上げ、スニーカーの重さを勢いにするまま男の股間を蹴り上げた。
「何してんだよ!」
 男の怒号を聞きつけ引き返してきた土谷が目にしたのは、急所への一撃に悶絶する男と、腐乱した獣の死骸でも見る様な眼差しでその男を見下ろす和歌子の姿だった。
「また貴様か……」
 土谷は和歌子を横目に見やり、ブラウスが著しく乱れている事に気付くや否や、テーザー銃を抜いた。
「何をされた」
 和歌子の前に立ち、銃口を男に突き付けながら土谷は問うた。
「胸倉を、何も言われず、掴まれました」
「それで」
「突き放そうとしましたが、しつこくて、蹴っ飛ばしました、アレを」
 和歌子の口調は冷静というより、関わる事を拒みたい忌々しさに冷め切っている様だった。
「保安部警備課に通信、保安部警備課に通信」
 土谷は無線通信機を起動させ、簡潔に状況を報告する。
「悪いのは……悪いのは、彼女、だ……」
 悶絶していた男は呻く様に、居直る様な言葉を口走る。
「何が悪い。いきなり胸倉掴み上げて、ブラウスまで破って、一方的に暴行したのはてめぇだろうが」
「公衆の面前で、髪も、肌も曝して、魂のある尊い物を、冒涜しているのは」
 男は起き上がらんとし、土谷は和歌子を背にかばう様に一歩踏み出した。
「彼女だ!」
「いい加減にして!」
 男の言葉に反応し、声を上げたのは和歌子の方だった。その声には、奥から駆け付けた警備部の職員も一瞬足を止めてしまうほどの力があった。
「あなたが敬虔なイスラーム教徒である事は尊重します! だけど、此処は日本国憲法に保障された日本国内で、私はイスラーム教徒ではありません!」
 照明が割れそうなほどの絶叫に、土谷は思わず振り返る。そして再び男を見据え、溜息を吐いた。
〈またお前か、ギハアド〉
 駆けつけた警備部の傭兵の一人、エンリケは呆れた様に呟きながら男のシャツを掴み、無理矢理に立ち上がらせる。
〈この前は菜食主義でない人間を、警備部の休憩室で後ろから殴って謹慎二週間、その前はフットボールのチームの優勝を祝って国歌を歌った職員を殴って減給三ヶ月、お前には脳味噌が無いのか?〉
 エンリケは忌々しげに男を別の職員の方に突き飛ばし、受け止めた職員は相方の職員と二人で男の身柄を確保する。
「そいつは奥に連れて行ってくれ。それからエンリケ、聴取はお前に任せた。俺は上に報告する」
 エンリケから男を受け取った二人は、今も痛みによろめく男を引き摺りながら保安室へと連れてゆく。
「土谷さん、事情聴取なら私が」
 残る二人の内、唯一の女性職員は男女間の暴力沙汰であれば被害者への聴取は自分の仕事だと判断し、去っていく男達とは反対に土谷に駆け寄った。
「いや、女手は足りていないし、彼なら問題ない」
「ですが」
「イスラム教は男女の別が厳しい。もし問題が起こった時、女手が無いのは問題になる。別に性暴力じゃねえんだ、戻れ」
「そう、ですか……」
 女性は不服げに眉根を寄せながら、来た道を引き返す。
 土谷は抜き身のテーザー銃を鞘に戻しながら再び振り返り、恐ろしく不機嫌な表情を浮かべた和歌子を見た。
「何があったかは彼に話してくれ。彼も大体の事情は知ってる。むしろ、あれがどういう人間か聞いてみろ」
「はぁ……」
 和歌子は曖昧に答え、立ち去ってゆく土谷の背中を見つめた。
「……御田川さん、こっちに来て下さい」
 土谷の気配が遠のいた頃、残っていた警備部のエンリケは口を開いた。和歌子は特段返事をするでもなくエンリケに歩み寄り、彼は適当な空き部屋を探して歩き始めた。
「……あの馬鹿者はイギリス出身で、外国人部隊の兵士だった。どうやら、中東でイスラム教に感銘を受けて改宗したらしいが、どうも間違えている。経験である事と共用する事の区別がついていない」
 嘆く様なエンリケの言葉に、和歌子は眉を顰めて問い掛ける。
「外国人部隊に居た頃からそうだったんですか?」
「それは分からない。はっきり分かるのは、多様性こそ重要とする協会が正規に雇用している警備員が、多様性を自ら否定する様な人間だという事だ」
 エンリケは頭が重くなるのを感じながら、吐き捨てる様に呟く。一方、和歌子は表情を更に歪ませ、嘔吐を催す様な心地で更に問い掛けた。
「え……あれ、警備課の人なんですか……」
「あぁ。俺達の監視対象には宗教施設も有って、実情を把握する為、実際に信仰している職員を抱えておく事が暗黙の原則らしい。神道と仏教は知らないが」
「でも、他にもイスラーム教の人居ましたよね、凄く髭の濃い方を見た覚えが有るんですけど」
「彼は少数派のシーア派で、ロシア語の通訳を兼ねて派遣されてきた傭兵だ。多数派のスンナ派の傭兵は居ない」
「……もっと、他に居なかったんでしょうか、人材」
「分からない。だが、この協会の採用担当者が有能では無い事は確かだろう」
 和歌子は同意する様に黙り込む。そんな沈黙が続くまま、二人の足は情報管理課の事務所の前で止められた。
「そのままの服装は気分が悪いだろう。先に着替えて下さい」
「じゃあ、そうします」
「終わったら呼んで下さい、話を聞きます」
「はい」
 事務室の奥に進みながら、和歌子は忌々しげに溜息を吐いた。
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