四、旅立ちの朝(2)

文字数 2,022文字

 同じ頃、西側に聳え立つ山の一角から、鋭い眼光で川岸を見下ろす男がいた。
「来たぞ」
辺りは夜霧に覆われている。だが、難なく目標の姿を見つけた善は、退屈そうに寝そべっている男に知らせた。
「お、どれどれ?」
男は飛び起きると、善が指す方を凝視した。
「きたきたきた!間違いねえ、あの娘だ!ずいぶん立派な馬を連れてるじゃねぇか。さっすがは銀貨三十枚の馬だな」
前方の山から昇りつつある陽光が夜空を押し上げようとしているが、依然として下界は暗闇の中にある。だが、この男も善と同様に夜目が利く。その狼のような目は、一頭の馬が川沿いを猛々しく駆ける姿を正確に捉えた。
「どこへ行くかと思えば、南の方へ向かってるぜ。さて、どうする?」
善が男の顔を見た。
「南?」
男は素っ頓狂な声を上げた。
「なんで南へ行くんだよ!つまんねぇ山と畑しかねぇじゃねぇか」
「どっかの村にでも逃げ込むつもりじゃねぇか?」
「その辺のチンケな村へ行くのに銀貨三十枚の馬がいるかよ。もっと遠くへ行くに決まってんだろ。夜逃げだぜ?」
男は何やら難しい顔で考えるそぶりを見せた。
「南・・・、南か。南へ行けば、村と畑と山と、あと何があったっけ?」
「ひたすらに南下すれば国境があるな」
「それだ!」
男はパチンと指を鳴らした。
「銀貨三十枚の馬で国境を目指すとは、だいぶ根性あんな」
善が笑いながら言った。
「笑いごとじゃねぇよ。南の国境っつったら、鷹月だろうが」
予想が外れたという顔で男は舌打ちした。遥か西にある故郷を出てから二年余り・・・。南西に位置する国々を旅した後に燕劫(えんごう)へ渡り、最南端に位置する鷹月を経由して、ようやく巳玄の首都までやってきたというのに、また南へ行くのは気が進まない。比永に飽きたら次は雷虎へ行こうと思っていたのだ。
「よりにもよって南かよ。どうせなら北へ行ってくれよ」
そんなことを言われても困ると娘は言うだろう。
「それは残念だったな。娘は南へ向かって一直線だ。で、どうする?」
「南ってのが気に食わねぇが、仕方ねっか。おい、仁!起きろ!出発するぞ」
寝そべるのにちょうど良さそうな岩の上で眠りこけていた仁が、細い目をこすりながら起き上がった。
「どこへ行く?」
睡眠を邪魔されたことが、さぞご不満らしい。眉間に小さな皺が何本も浮かんでいる。
「先回りだ!」
そう言った瞬間に男は姿を消した。砂塵が巻き起こり、落ちていた木の葉が吹き飛ばされている。そして、それらが重力に引っ張られて落ちるよりも先に、
「早く来いよ!何やってんだ!」
と、仲間を呼ぶ男の声が遥か下方から聞こえて来た。
「また始まったよ」
数秒前まで山頂付近にいた男が今や麓にいることに驚きもせず、善はやれやれと言う顔で肩をすくめた。
「おーい、なにしてんだー、早くしろー」
なぜ、こうもせっかちなのか。せっかちという性質だけを与えられて、この世へやってきたに違いない。
「ったく、しょうがねぇなぁ」
ぶつくさ言いながら善も姿を消した。はぁっと面倒くさそうに溜息をついてから、仁もそれに続く。二人は凄まじい脚力で地面を蹴ると、重力など存在しないかのように高く舞った。そして、そのまま急降下した。風を切り裂きながら跳躍を二度三度と繰り返し、瞬く間に平らなところへ降り立った。
「おっせーよ!」
待ち構えていた男が言う。
「つくづく、せっかちな野郎だな」
善が苦笑いした。毎度、そのせっかちに付き合わされる身にもなってほしい。
「ぐずぐずすんな。見失ったらどうすんだよ」
「見失うかよ。こんな小っせぇ山で」
男は高揚していた。目はいたずらっ子のように煌めき、うずうずと足踏みをしている。
「いいから、早く行くぞ!」
その声は空高くまで響き渡った。
 そして男は、斜め前方にある山へ向かって走り出した。だが、走るという表現は適格ではない。地面を蹴り、高く飛んでから着地し、また飛び、着地する。それを繰り返すだけで、あっという間に目的地の山までやって来た。三人とすれ違う者がいれば、突風が吹いただけだと思うかもしれない。そして、その勢いのまま山へ入ると、木々を切り分けるようにして登っていき、あっという間に山頂へ到達した。
 三人は、すぐ目の前に聳え立つ三鷹山を眺めた。今いる山よりもかなり標高が高い。男の目がぎらりと光った。
「このふたつの山を越えれば、あとは南へ向かって一直線だ」
善が視線を遠くへ向けながら言った。
「鷹月か・・・。楽しかったな」
すぅっと風を吸い込むと、男は目を閉じた。そして、口元に笑みを浮かべて旅の思い出に浸った。だが、突然に目を輝かすと、
「お、あそこに良い岩があるじゃねぇか」
と言って、男は三鷹山の山頂付近を指さした。
「時間を潰すにはもってこいだ。よし、あそこへ行くぞ」
三鷹山で待っていれば、必ずや娘はやって来る。
 男は木の枝に飛び乗ると、すぐさま数本先の木へ飛び移った。鳥のように舞い、ムササビのように木から木へ跳躍する三人の姿は、瞬く間に三鷹山の奥深くへ消えて行った。
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