四、旅立ちの朝

文字数 2,437文字

 月が半透明になり、鳴き始めた鳥たちが静けさを打ち破ろうとしている。だが、落日と共に下がった気温は依然として低く、白霧が山を覆い隠している。 
 夢と現実の間を行ったり来たりしていた巴慧は、ぶるっと震えてから目を覚ました。なにか夢を見ていたはずだが、目を開けた途端に消えてしまった。自ら記憶を消したのか、それとも何者かによって意図的に消されたのか・・・。ただ、何か嫌なものを見ていた気がする。その証拠に、背中がべっとりと濡れている。布団に侵入してきた冷気が汗を冷やし、また体が大きく震えた。
 しばらく布団に包まっていたが、意を決して起き上がった。市場で買った着物に着替えて布団を畳む。少しだけ戸を開けると、辺りはまだ暗い。だが空を見上げると、山の向こう側から淡い光が昇ってきているのが見えた。
 そっと戸を閉めると、一新が目を覚まして布団から出てきた。
「ごめんね、起こしちゃった?」
一新は何も言わないまま手を伸ばし、壁際に置いてあった巴慧の荷物を掴んだ。
「そろそろ出発しなくちゃね」
無理に笑顔を作って言うと、一新は荷物をぎゅっと抱きしめて、また頭から布団をかぶってしまった。
「一新、もうすぐ出発するから、見送りに来てくれる?」
しばらく待つが、返事はない。だが、やがて布団から出てくると、一新は荷物を抱えたまま巴慧の傍へやってきた。
 外へ出ると、ミトとカイリが待ってくれていた。
「カイリ、見送りに来てくれるの?」
目を輝かせながら声をかけると、ふんっと不貞腐れた顔でそっぽを向いてしまった。
「さて、ぼちぼち行こうかね」
 四人は川の方へ歩いて行った。すでに馬は川沿いの厩舎にいる。朝風が頬に張り付き、冷えた足を前へ動かす度に喉の奥が狭くなった。それを隠すように、巴慧は明るい声で話し続けた。
 厩舎へ入るやいなや、一頭の黒馬に目が釘付けになった。
「あの子が、私の馬?」
そう思った瞬間に胸が打ち震えた。思わず止めてしまった歩みを再開し、ゆっくりと近づいていく。そして目の前まで来ると、巴慧は馬を仰ぎ見た。
「すごいねぇ。こんな馬は見たことがないよ」
言葉を忘れてしまった巴慧の代わりにミトが言った。
(この子が、私の馬・・・)
時を忘れて、ただただ見惚れた。近くから見ると、その大きさに圧倒された。漆黒の毛並みは美しく、隆々と盛り上がる筋肉ははち切れんばかりに逞しい。なんて、神々しいんだろう。ゆっくりと歩み寄り、馬の首にそっと額を当てた。そのまま馬はじっとしていたが、やがて巴慧に顔を摺り寄せてきた。
「どうやら、相棒と認めてくれたようだね。早速、名前を考えてやんなきゃなんないね」
「もう、決めてあるの」
そう答えると、巴慧は馬を仰ぎ見て、「琉星(りゅうせい)よ!」と、その名を読んだ。
「琉星か。良い名じゃないか」
眩しそうに目を細めながらミトが言った。
 厩舎から出ると、今にも消えてしまいそうな月が川面に光を映している。そのかすかな光が門出を祝福してくれているようで、喉の奥が苦しくなった。
 巴慧はミトと向き合うと、その小さな体をそっと抱き寄せた。
「ありがとう。ミトさんがしてくれたこと、一生忘れない」
「よしてくれよ、そんな改まって。照れるじゃないか」
抱きしめられることに慣れていないミトは身をよじって巴慧の腕から逃れた。
「これ、たいしたもんじゃないけど」
渡された包みの中身を確認すると、握り飯と饅頭が入っている。
「ありがとう。嬉しい」
「元気でいてね。それだけが私の願いだよ。困ったらいつでも戻っておいで。ここにいるからね」
それ以上は言葉にならなかった。ミトはぐっと唇を噛みしめると、顔を隠すように俯いた。
「カイリも、ありがとう」
そう言って抱き寄せると、カイリは真っ赤な顔で巴慧の体を押しのけた。
「やめろよ、恥ずかしいやつだな!」
えへへと笑うと、つられてカイリも笑った。
「ばあさんの言うとおり、いつでも戻って来いよ。別に、困ったことがなくても戻ってきていいんだからな」
涙目で頷くと、カイリは巴慧の顔から目を逸らせた。
 巴慧は最後に一新を見つめた。
「一新、あなたは連れて行けないけど、ここで体を治して早く元気になってね。また、いつの日か会えるのを楽しみにしてるから」
優しく抱き寄せるが、一新はぴくりとも動かなかった。体を離して笑いかけても、無表情のまま下を見ている。
 巴慧は馬に跨った。一気に目線が高くなり、ふわふわとした感覚に全身が浮き立った。
「ほらよ」
カイリが一新の手から荷物を奪い、背伸びをして巴慧に手渡した。
「ありがとう。では、行ってきます。みんな、お元気で」
別れを告げると、巴慧は馬の首をぽんぽんと叩いた。すると、琉星は勢いよく駆け出し、一気に加速した。激しい振動が体を揺さぶり、後方にいる三人が瞬く間に遠ざかった。巴慧は後ろ髪を引かれる思いで手綱を握りしめた。勝手に溢れた涙が風に乗って流れていく。優しくしてくれた人たちから離れるのがつらい。ひとりになってしまうことがつらい。
「あ!おい、おまえ、どこ行くんだよ!」
後方で叫ぶ声が聞こえた。
「止まれよ!おい、止まれってば!」
カイリが喚いている。振り返ると、一新がこちらへ向かって走って来るのが見えた。
「一新!」
驚いて名を呼ぶと、一新はさらに速度を上げて、ぐんぐんと近づいて来た。
「一新!だめよ、連れてはいけないの!」
叫んでいる間に、一新は馬のすぐ後ろまで追いついてきた。そして、手を伸ばして鞍をつかんだ。
「危ない!」
巴慧は咄嗟に手を伸ばした。だが、それよりも早くに地面を蹴り、一新は鳥のように宙を舞った。そして、そのまま馬の背に飛び乗った。巴慧はあっけにとられていたが、次の瞬間、弾けたように笑い出した。
「あははははは!」
また涙が出てきた。
「一緒に行くの?」
そう問いかけると、言葉で答える代わりに腰に手を回し、ぎゅっと掴まってきた。
「わかった!」
笑顔が弾けて、なにかがほとばしった。
「行こう!一緒に!」
二人は琉星に乗って、明るみ始めた空へ向かって走った。
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