二、老街の住人(3)

文字数 2,968文字

 遠ざかる八朔の背中に向かって深く一礼すると、
「いつまで寝てるんだい?ほら、さっさと風呂屋へ行っといで!」
と少年を叩き起こし、ミトはカイリに着替えを渡した。
「これ、俺のじゃんか!」
「背格好が同じくらいなんだから当然だろ?それともなにか?こんなばあさんのカビ臭い着物を着せろってのか?」
ミトに口で勝てるはずもなく、カイリは苦い顔で少年の方を見ると、「ほら、とっとと行くぞ」とぶっきらぼうに声をかけた。強引に起こされた少年は目を(しばたた)かせていたが、カイリの言葉を聞くと激しく首を横に振った。
「いやいやじゃねぇよ。行くぞ!」
少年は布団の中に隠れてしまった。ずかずかと大股で近づくと、カイリは布団を剥ぎ取り、少年の枯れ枝のような腕を掴んだ。
「こら、大人しくしろって!」
少年の拳がカイリの顎をかすめた。
「ちょっと待って!」
二人の間に割って入ると、巴慧は腰を屈めて少年と目線を合わせた。
「心配しないで。この子は私の友達でカイリって言うの。これからお風呂屋さんに連れて行ってくれるから、一緒に行って暖かいお風呂に入ってきて。大丈夫、カイリのことは信用して大丈夫だから」
根気よく説得を続けると、やがて少年は落ち着きを取り戻した。カイリは少年の腕を無理やりに引っ張り上げると、「行ってくる!」と言い残し、ぐいぐいと手を引きながら出て行った。
「大丈夫かしら」
あぁ心配だ。
「さて、ちょっくら話をしようかね」
遠ざかってゆく二人の背中を戸口から眺めていた巴慧を呼び寄せると、ミトは浮かない顔で尋ねた。
「どうも穏やかじゃないね。詮索するつもりはなかったんだけどね。あの子の体を見て気が変わったよ。いったい、何があったんだい?」
座った途端に核心を突かれた巴慧は言葉に詰まり、慌ててぬるい茶をすすった。
「えぇっと、その・・・」
体は正直だ。手が震えている。ちらりとミトの顔色を窺うと、深く刻まれた目尻の皺がこめかみまで伸びている。巴慧は悩んだ。何から話せば良いか、どう話せば良いか、むしろ、話すべきかどうかも分からない。
(でも、話さないのに助けてもらいたいなんて、虫が良すぎるわ)
そう思っていると、胸の内を見透かしたようにミトが言った。
「言いたくないなら無理に言わなくてもいいんだよ。ここにいることは誰にも言わないし、この辺りの連中は、たとえ何を見たとしても誰にも何も言わないよ。隠れたければ隠れ場所はいくらでもある。どうしてほしいかだけ言えばいいさ」
涙が頬をつたった。いつからこんなに泣き虫になったんだろう。なんとか堪えようとして、ぎゅっと目に力を入れる。
「ありがとう、ミトさん。本当に、ミトさんがいなければ、どうしていたか分からないわ」
「なぁに、困ったときはお互い様さ」
目尻の皺がさらに深くなった。この暖かい笑みは、長い年月とともに刻まれた皺があってこそだ。二人は目を合わせて、静かに茶をすすった。
 ふぅっと息を吐き、視線を泳がせる。外からは物音ひとつ聞こえてこない。狭い裏路地とは言え、以前はもっと人通りがあったと思うが、やはり今日は何かあるのだろうか。
「今日は静かなのね。ここに来るとき、面白い恰好をした人たちをいっぱい見たけど、何かあるの?」
「あぁ、今日は祭りがあるんだよ。あっちこっちの村から芸人が集まって、芸を披露しあうのさ。この辺りの連中もこぞって大通りの方へ行ったってわけ。滅多に見られないもんが見れるからね」
そうか、それで騒がしかったのか。
「そのおかげで、怪しまれずにここまで来れたわ」
「あはは!奇妙な芸をする一団と思われたんじゃないか」
大きな口を開けて笑うミトの顔は前の歯が一本ない。浅黒い顔がくしゃくしゃに崩れる笑顔が巴慧は昔から大好きだった。
「ミトさん、頼みたいことがあります」
「なんでも言いな」
「質屋に連れて行ってほしいの。あれを売るために」
巴慧は壁際に置いてある包みを指して言った。
「わざわざ頼むってことは、その辺の質屋じゃだめってわけだね。任せな、良い店がある。明日にでも連れて行ってあげようね。まともな人間は出入りしないから、何を売ろうがばれやしないし、出どころを聞いてくるような奴もいないから安心しな」
やはりミトは頼りになる。すぐに事情を汲み取ってくれた。
「ありがとう。それと、馬を買いたいんだけど」
「お安い御用さ。良い馬を安く買えるところがある。ほかには?」
「あとは・・・」
少しためらってから、遠慮がちに口を開いた。
「あの子が元気になるまで、ここに置いてやってもらえませんか?」
「あの小僧かい?そりゃ構わんけど、おまえさんはどうするのさ?」
「私は出来るだけ早いうちに、新原(しんばる)へ向かおうと思います」
「新原だって?」
ミトは眉を持ち上げた。それもそのはずである。新原は巳玄の隣国「鷹月(たかつき)」の首都だ。国境まで行くのですら難儀なのに、入国して首都まで行くとは、いったいどういうことだろうか。何日かかるか見当もつかない。
「また、なんでそんな遠いところへ行くんだい?」
ミトは顔をしかめた。
「できるだけ遠くに行きたいんです」
はぁっと長く大きなため息が室内に広がった。
「何から逃げようとしているかは知らないし、詮索しようとも思わないけど、女の子がたったひとりで行ける場所には思えんね」
「そうなの。女の子には無理。だから、男になるわ。髪も切る」
「男に化けるってのかい?ずいぶんとまぁ可愛らしい男がいたもんだね」
「女の装いでいるよりは目立たないでしょう?」
どう考えても無謀だ。そんな馬鹿げた考えは捨てるよう説得を試みたが、少女の意志は思いのほか固かった。聞こえよがしにため息を吐くと、ミトは首を横に振った。
「言っても無駄みたいだね。わかったよ。小僧のことは心配無用。いたいだけいればいいさ。すでにひとりいるからね。もうひとり増えたところでどうってことないよ」
「ありがとうございます!」
深々と頭を下げると、ミトはやれやれと言った様子で肩をすくめた。
 すぐにでも質屋に行き、馬を買おう。身支度を整えたら出発だ。そう思ったが、ミトに止められてしまった。体の至るところに切り傷があり、特に足には深い傷がいくつもあった。不本意だが出発を遅らせて、今夜はミトの家で休ませてもらうことにした。
 疲れを癒しておいでと言われて、日が沈み始める前に風呂屋へ向かった。みすぼらしい民家の戸を叩き、慣れた様子で草履を脱ぐ。顔なじみの若い店番の娘と短い挨拶を交わしてから脱衣所へ向かい、着物を脱いだ。
 浴室へ入ると、ありがたいことにほとんど人はいない。髪と体を入念に洗ってから湯船に入ると、擦り傷がひりひりと痛んだ。八朔に巻いてもらった左肩の包帯を濡らさないように苦心しながら胸まで浸かり、ふぅっと息を吐いた。かなり深い傷だが、全く気付かなかった。痛みを和らげる薬草が効いているようだ。凝り固まっていた筋肉が一気にほぐれてゆく感覚に身を委ねながら、ゆっくりと目を閉じた。
 やはり、山は厳しかった。体力があるからなんとかなるだろうと思っていたが、それがいかに甘い考えだったかを痛感させられた。こうして無事に街へ辿り着けたのは幸運だったとしか言いようがない。今回は軽傷ですんだが、これからの旅路を思えば身がすくむ。無謀なことは分かっている。ぞわっと体が震えて、べっとりと嫌な汗が額を濡らした。
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