五、巳玄を統べる者(4)

文字数 3,875文字

「座りなさい、千早」
しぶしぶ座り直した千早は、すぐにまた荒人に詰め寄った。
「荒人様、どうなんですか?斎海家を出て行かれるのですか?」
まったく、困った子だ。だが、そんな千早を好ましく思う。手のかかる子ほど可愛いとはよく言ったものだ。
「私が那祁家へ入るのだよ。やがては巴慧と那祁家を継ぐことになる」
千早は困惑した。那祁家は巳玄一の名家だ。荒人様はその権力が欲しいのだろうか。いや、荒人様は権力や名声には興味のないお方だ。では、なぜだ。疑問が頭を駆け巡る。
「荒人様は、那祁家の当主になりたいのですか?」
「そうではないよ」
「では、なぜですか?斎海家はどうでもいいのですか?」
「どうでもよくはないが、斎海家には私以外にも跡取りはいるだろう?」
「私は荒人様が跡取りに一番相応しいと思います」
ハハハと荒人は声をたてて笑った。どこまでも可愛いやつだと千早の頭を撫でる。佳水は二杯目の麺をずるずるとすすっている。細いくせによく食べる男だ。
「千早、私は那祁家の当主になりたいわけではない。斎海家を継ぎたいわけでもない。ただ、巴慧の夫になりたいのだよ」
千早の顔は困惑の相を極めた。荒人のような男が、望めばあらゆるものを手に入れられる力と才を持つ男が唯一なりたいと望むものが、たったひとりの女の夫だというのか。
「荒人様なら、斎海家の立派な跡継ぎになれます!いいえ、荒人様なら、巳玄どころか、雷虎(らいこ)の役人にさえなれます!高官にだって!」
納得がいかないという顔で千早は言った。
「そうかもしれないな。でも、斎海家には巴慧がいない。雷虎にも、いないだろう?」
千早は麺をすする佳水に詰め寄った。
「佳水様!佳水様はそれで良いのですか?佳水様が荒人様に学問をご教授されたのでしょう?荒人様は巳玄で留まっているお方ではない、もっと上へ行かれるお方だと、そう見込まれたからではないのですか?」
「荒人様が望まれるのなら、それを尊重するしかあるまい?」
ようやく口を開いた佳水はそう答えると、荒人に視線を注いだ。
「もちろん、荒人様は雷虎にも、その他のどの国にも行けるお方だと私も思っております。けれど、あなたにそのような欲はないのでございましょう?」
「すまんな」
荒人は苦笑した。
「では、仕方ありますまい」
千早は地団駄を踏んだ。
「もう!佳水様まで、なんですか!」
「そう怒りなさんな。那祁家の当主として龍円(りゅうえん)を目指すという方法もあるのですから」
佳水の言葉を理解できずに千早は瞬きを繰り返した。巳玄の兄国(けいこく)である雷虎を飛び越えて、龍円を目指すとは、いったいどういう意味だろうか。考えれば考えるほど頭が混乱した。荒人はやれやれと言った表情を浮かべたまま何も言わない。しばらくの間、千早は二人の顔を交互に見比べていたが、やがてふてくされた顔で佳水に尋ねた。
「佳水様は、どうされるのですか?荒人様が那祁家へ行ってしまわれたあと、佳水様はどうなさるおつもりですか?」
「佳水には一緒に来てもらうぞ」
荒人が代わりに答えた。佳水も、何を言っているのだ、ついて行くに決まっているだろうと言った表情で千早を見ている。千早は勢いよく立ち上がった。
「ならば、私もともに行きます!」
また突拍子もないことを言い出した。
「何を言い出すかと思えば、おまえは飛脚だぞ」
「飛脚が一緒に行ってはいけないという決まりはございません!私も荒人様とともに那祁家へ参ります!」
若いというのは良いものだ。その弾けんばかりの瞬発力で、どこへまでも飛んでいけるのだろう。
「面白いやつだな、千早は」
楽しそうに笑う荒人に対し、
「私は至極真剣です!飛脚だからだめだとおっしゃるなら、今日から私を付き人にしてください!私は最初から荒人様の付き人になりたかったのに、足が速いからとか、馬の扱いが上手いからとか言ってはぐらかされたんですよ。もう飛脚はやめます!今日からは付き人です!」
そう宣言すると、千早はぷいっとそっぽを向いた。
「分かった、分かった。負けたよ。千早も一緒に連れて行こう。良いか、佳水」
「荒人様がそうおっしゃるなら、仕方ありませんね」
やれやれと言った表情で佳水が承諾すると、千早は飛び上がって喜んだ。
「だが、那祁家へ入るまでは飛脚でいてもらわないと困る」
そう言うと、荒人は一通の文を取り出した。
「これを父に届けてくれないか?」
「なるほど!付き人兼飛脚というわけですね?」
「頼まれてくれるか?」
千早は目を輝かすと、
「お任せください!すぐにお届けします!」
と言って、店を飛び出して行った。
「まったく、嵐のような子ですね」
店内に残された二人は顔を見合わせて笑った。
「さて、そろそろ行こうか。街中をもっと歩きたい」
立ち上がろうとすると、佳水が落ち着き払った声で言った。
「私はまだ食事が終わっておりません」
「まだ食べるのか?」
「もちろんでございます」
佳水の目の前にはすでに空の器が積まれている。
「相変わらずだな。そういえば、宿の料理は食べなかったのか?」
「食べましたよ」
「なかなかの評判だそうだが、口に合わなかったのか?」
「いいえ、すばらしかったですよ。ですが、あのように豪華なお料理は、たまに頂くからおいしいのでございます。毎日では、その有難みも薄れてしまいましょう」
それで麺をすすりに来たわけか。
「なるほど、それもそうだな」
佳水が食べ終えるまで気長に待つとしよう。荒人は頬杖をついて佳水が食べるのを見守った。そして、二人が店を出たのは、佳水が更に六杯の麺を平らげてからであった。
「芸能通りに行きたいんだが、良いか?」
千年通りの雑踏の中を歩きながら荒人は尋ねた。
「もちろんでございます。何かお探しですか?」
「あぁ。なにか贈り物を、と思ってな」
ごにょごにょと口ごもる荒人を涼しげな目で一瞥すると、
「それなら、もう少し行くと良質なものを揃えた小物屋がありますので、そちらに行きましょうか。手鏡など喜ばれるかと」
と、佳水はまるでこの街の住人かのように提案した。
「手鏡か、それは思いつかなかった。たしかに喜びそうだな」
これではどちらが年長か分かったものではないが、せっかくの機会だ。年頃の娘が喜びそうな柄を選んでもらおう。こういったことにはてんで疎い荒人は佳水に任せることにした。
 銀細工で縁取られた扉を押すと、ふわりと漂う香が鼻先をなでた。壁にかけられた照明がうっすらと店内を浮かび上がらせている。中へ入ると、一流の職人によって丹精込めて作られた装飾品が丁寧に並べられていた。そのひとつひとつに繊細な細工が施されており、身なりの良い客がまるで芸術品を鑑賞するかのように眺めている。荒人もゆっくりと店内を歩きながら、鞄や手ぬぐい、櫛や化粧道具などを見て回った。
「これ、どう思う?」
手鏡をひとつ手に取り、じっくりと品定めしてから佳水に意見を求めると、
「上品で色も綺麗ですし、大きさも手頃ですね。喜ばれるかと思います」
と、太鼓判を押してくれた。気分よくお代を支払ってから店を出ると、二人は楽しそうに雑談しながら歩く人々の群れに溶け込み、また広場の方へ戻って行った。
「今朝は祭りがあったのですよ。昼までやっていたので、もう少し早ければ荒人様もご覧になれましたのに」
それで人が多いのか。言われてみれば、様々な民族衣装を着ている者があちこちにいる。
「どんな祭りだったんだ?」
「各地から芸人が集まり、技を披露し合ったのですよ。なかなか見応えがありました」
「ずいぶんと楽しんでいるじゃないか」
「もちろんでございます。せっかくここにいるのですから、楽しまないともったいないでしょう?」
「それもそうだな。楽しむ心を持つことは大事だ」
「それにしても、良い街ですね。活気があって、人々の暮らしも豊かで、治安も良い。さすがは巳玄の都です」
「そうだな、住み良い街だ」
この地で生まれ育った荒人は誇らしさを顔に滲ませた。それと同時に、身が引き締まる思いであった。巴慧の夫になり那祁家を継ぐということは、いずれは国司の座をも引き継ぐことを意味する。長年保たれてきた平安を自分が守っていかなければならない。
「貴方が当主になれば、この街も、私の故郷も、この国すべてを貴方が統治することになるのですね」
ぎくりとした。やはり、この男には人の考えを読む神力のようなものがあるのではないか。
「あぁ、そうだな」
「その意味が、お分かりですか?」
「どういう意味だ?」
真意を図りかねて、荒人は佳水の横顔を窺った。
「これから先、巳玄の国司になると言うことは、巳玄をより良き方へ導くということです。そしてそれは、必要とあらば、たとえ他国とは異なる道を辿ることになったとしても、己の信じる道を突き進む、ということでございます」
「他国とは異なる道?どういう意味だ?」
「私は、荒人様が『巳玄の国司』という器に収まる方だとは思っておりません。それに関しては千早と同意見でございます」
荒人はやれやれと言った表情で首を振った。
「何を言っているんだ。おまえまで、どうかしているぞ。私は那祁家の当主として、巴慧の夫として、巳玄の国司として、恥ずかしくないよう懸命に尽くしていくつもりだ。それ以上は望んでいない」
「私はこの巳玄という国も、この先ずっと従属国でい続けるような小国とは思っておりません」
乾いた風が二人の間を吹き抜けた。
「どういう意味だ?巳玄は雷虎の従属国だぞ。今までずっとそうだった。変わるものか」
「今までがそうだったからと言って、これからも変わらないと信じる根拠はどこにもございません」
荒人には佳水の言っている意味が分からなかった。
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