六、閉ざされた光

文字数 2,609文字

 那祁家に着いたのは日没から半刻が過ぎた頃であった。馬から降りると、辺りは深い闇に包まれている。
「予定よりも遅くなってしまった。急ごう」
馬を預けて小走りに正門まで行くと、なにやら様子がおかしいことに気づいた。開錠してくれた門番の男も、心なしか顔を引きつらせている。
「何かあったのですか?」
そう尋ねると、男は「私の口から申し上げることはできません。早く、お戻りください」と言って、中へ入るよう急かした。二人は顔を見合わせた。
 屋敷内は静まり返っている。いつもなら女中が食後の片付けに忙しく立ち回っている頃合いだが、ひとりの姿も見えない。
「おかしいな」
違和感を覚えた荒人は、黎明の侍者である湊を探した。執務室の前で名を呼ぶが、応答はない。二人は国司の職務室を目指した。
「黎明様、おられますか?荒人です」
すぐに内側から襖が開けられた。湊が「どうぞ中へ」と二人を招き入れる。中へ入ると、広い室内の中央にある机の前に黎明が座っていた。その顔を見た荒人は思わず足を止めた。血色が良かったはずの顔は目が窪み、乾いた唇が粉を吹いている。蒼白い灯に浮き上がる輪郭はまるで亡霊のようだ。
「どうされたのですか?一体なにが・・・」
黎明を見た荒人は、ぞっとして湊を見た。
「巴慧様が、いなくなりました」
巴慧が、なんだって?
「巴慧様が、出て行かれたのです」
湊のか細い声がそう告げた。
「巴慧が、なんだって?」
「出て行ったとは、どういうことでしょうか?」
理解できずにいる荒人に代わって佳水が尋ねた。
「置手紙を残して出て行かれたのです。気づいたときには、もう・・・」
そう言うと、湊は力なく頭を垂れた。黎明は虚ろな目で机を見ている。隅っこで縮こまって顔を覆っている女性は、おそらく巴慧の付き人だろう。この中で佳水だけが冷静に状況を把握しようとしていた。
「いつ頃、出て行かれたのですか?」
「一昨日の夜遅くから朝方にかけてだと思いますが、正しい時刻は分かりません。昨日の昼前に、いないことに気づいたのでございます」
少し間を置いてから、湊は言いづらそうに続けた。
「ずっと捜索しておりますが、行方知れずのままでございます」
佳水は荒人を見た。無表情のまま、石のように固まっている。
「荒人様、気を確かにお持ちください」
腕を掴み軽く揺すってみるが、反応はない。
 巴慧が出て行った?そんははずはない。一昨日の今頃は、ここにいたではないか。夕食のあと、おやすみなさいと言ったら、おやすみなさいと返してくれたではないか。出て行ったなど、そんなわけがあるか。そうだ、どうせ質の悪い冗談だ。そうだ、そうに違いない。黎明様も、とんだ役者だ。
「佳水、皆で私をからかっているのだ。黎明様も人が悪い。巴慧がいないなど、つまらぬ冗談を」
乾いた声で笑う荒人を、佳水は切れ長の目で見た。
「荒人様、これが冗談に見えますか。巴慧様は、いなくなったのです」
荒人は一気に体が重くなる感覚に襲われた。そして、重苦しい沈黙がその場を支配した。虚ろな表情で視線を泳がせる荒人の目にはなにも映っていなかった。がんがんと巨大な釘が打ち付けられるような音が脳内に響いている。
「そんなわけあるか。巴慧が出て行くなんて、そんなわけが」
不快な音を追い払おうと頭を激しく横に振ってから、荒人は情けない笑みを浮かべた。
「街に出て、まだ戻ってきていないだけではないですか?巴慧のことだ、ひとりで街へ行ったとしても、なんら不思議はない」
ひとりでこっそり街へ行ったというのは、あり得ない話ではないだろう。だが、二日も帰っていないとなると事態は深刻だ。それを知りつつも、楽観的な言葉を述べずにはいられなかった。
「これを、ご覧ください」
躊躇いがちに与佐子と目を合わせて小さく頷くと、湊は荒人に一通の文を手渡した。震える手で受け取り、文を読み始めた瞬間に、背後から頭を殴られたような衝撃が走った。そして鉛が喉に詰まったかのように、呼吸が苦しくなった。巳玄は治安の良い国ではあるが、若い娘がひとりでうろつくにはそれ相応の危険が伴う。山には人を傷つけることをなんとも思わない蛮族や、肉に飢えた猛獣がいるのだ。山に取り囲まれた那祁家から、たったひとりでどこへ向かったというのだ。たったひとりで今、どこにいるというのだ。
「巴慧!」
突発的に部屋から飛び出して行こうとした荒人を佳水が抑えた。
「お待ちください。どこへ行くおつもりですか」
「探しに行くに決まっているだろう!放せ!」
「貴方が飛び出して行ったところで状況は変わりませんよ」
「うるさい!放せ!」
「湊様、状況説明をお願いします。巴慧様の捜索はどうなっていますか?」
荒人と揉み合いながら尋ねる佳水の言葉に湊はハッと顔を上げて、
「巳玄軍が捜索に当たっております。見つけ次第、保護するはずですが、いまだに知らせは」
と、声をつまらせた。
「ならば、私も向かう!ここでじっとしていられるか!」
言い出したら聞かない荒人の性格を佳水は熟知している。とても阻止できる気がしない。
「分かりました。我々も探しに行きましょう。では、失礼いたします」
佳水の腕を振りほどき、挨拶もなしに部屋を飛び出して行った荒人の代わりに一礼すると、佳水は慌てて後を追った。
「待ってくれ!」
呼び止める声に振り返ると、黎明がふらつく足を引きずりながら廊下へ出て来た。
「頼む、あの子を、どうか見つけてくれ。どうか、どうか、あの子を、一刻も早く」
佳水の着物にすがりつき懇願する顔は枯れ木のようだ。
「ご安心ください、黎明様。この佳水、必ずや巴慧様を見つけて戻ってまいります。それまでどうか、お気を確かに」
震える手を握りしめて誓うと、黎明は目を見開いて佳水の顔を凝視した。佳水という名は何度も聞いている。会うのは初めてだが、荒人の付き人について親友が話すのを数え切れないほど聞いた。
「あれほど有能な男は他にいない。先見の明をもって、必ずやこの国を明るいところへ導いてくれるだろう」
啓史の言葉が蘇る。
ーそうだ、佳水、この者なら、必ずや巴慧を見つけ出してくれる。
「頼んだ、佳水殿」
細く白い手に額を押し当てて懇願する。思いを、希望を、この若者に託す。佳水は力強く頷き、敬礼した。
 遠ざかっていく佳水の背が霞んだ。頼む、必ずや、必ずや巴慧を連れて帰ってくれ。黎明は深く頭を下げた。そして、いつまでも、その背が見えなくなっても、頭を上げようとはしなかった。
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