一、月の夜の少年

文字数 2,727文字

 呼吸を乱しながら足を前へ動かしていた巴慧は地面に転がっていた小岩につまずき、大きく体勢を崩した。
「あっ!」
声を上げた直後に、手のひらと右ひざに激しい痛みが走った。ふぅふぅと小刻みに息を吐きながら痛みに耐えるが、起き上がろうとして体を動かした途端に、また強い痛みに襲われた。
 うつ伏せのまま空を見上げると、夜霧にかき消されそうな月が辺りに半透明の影を落としている。どこからともなく忍び寄ってくる湿気が肌にまとわりつき、何倍にも増したであろう重力が力を奪っていく。
 呼吸を整えてから起き上がると、巴慧は近くにあった岩の上に腰を下ろした。木の葉の隙間から届くかすかな光を頼りに体を見てみると、あちこちに血が滲んでいる。しかも、激しく打ち付けた右膝はずるむけになっている。
 持てる限りのものを風呂敷に包んで家を飛び出してから、どれほどの時が経っただろうか。出発したときは左斜め上にあった月が、今はずっと高いところにある。無我夢中で暗澹とした山中を歩き続けてきたが、どの辺りを進んでいるかすら分からなくなってしまった。
 突然に鋭い痛みを感じて足を見ると、爪が何枚も割れている。しかも、脱いだ下駄の状態を調べてみると、あと少しで緒が切れそうになっているではないか。
「もー!ほんっとにバカ!」
もっと歩きやすくて丈夫な下駄があったはずなのに、赤い花柄模様の、言ってしまえば可愛さだけを追求して作られたようなものを履いてきてしまった。己の無為無策さにげんなりする。
 巴慧はうなだれた。すると、強引に婚姻話を押し進めるふたりの会話が一気に蘇って来た。
「これで、安心して隠居できるよ」
「何をおっしゃるんですか、まだお若いのに・・・。そんなことを言ったら父上に怒られますよ」
「ははは、そうだな。啓史の説教する顔が目に浮かぶ」
たまらずに飛び出してしまった。愚かと言われれば全くもってその通りで、反論のしようもない。だが、体が動いてしまったのだ。突発的な行動だったとは言え、家出した以上は連れ戻されるわけにはいかない。張った意地は張り通さねばならない。私にはまだ、見たい景色がある。やりたいことがあるのだ。小さな檻の中で生きていくのはいやだ。大空へ羽ばたく鳥を羨みながら生きるのはいやだ。
 しかも、ひどいではないか。一言の相談もなく勝手に決めてしまうなど、あまりに横暴だ。荒人も荒人だ。なぜ私に直接申し込まないのだ。こそこそと裏で話をつけるなんて、ちっともかっこよくない。
「お父様、人は平等だと、そうおっしゃったではないですか」
そう呟くと、目から大粒の涙が零れた。そして、幼い頃の記憶が蘇った。

「お父様、貴族の女の子は外出を制限されるって本当?」
七つか八つの頃、こう尋ねたことがあった。
「どうした、急に。誰かからそう言われたのか?」
娘からの突然の問いかけに黎明はきょとんとした。
「うん、ちょっとね、小耳に挟んだの。ねぇ、それって本当?」
「まぁ、そうだな。それが一般的と言えるかな」
「でも、私はいつも外へ出ているわ。なぜ、お父様は許してくれるの?」
じっと答えを待つ愛娘の髪を優しく撫でながら、
「そうだなぁ。それは、私が男だから女だからと言って、異なる育て方をしたくないからだよ。私の子供として生まれてきてくれたんだ。そんな風に区別するのはおかしいだろう?」
と尋ねた。
「うん、おかしいと思うけど」
「私は昔から、いつか子供が生まれたら、息子も娘も同じように育てようと思っていたのだよ。まぁ、結局は女の子をひとり授かったわけだが」
「男の子が欲しかった?」
「なぜそう思う?」
「だって、どこも男が大事なんでしょ?」
まったく、どこでそんな話を聞きつけてくるのやら・・・。黎明は困ったように目を細めた。
「まぁ、そういう家もあるかもしれないな。だが、私は巴慧が生まれてくれて、世界一の幸せ者だ。おまえがいてくれれば、他に何も望まないよ」
「じゃあ、家を継がなくてもいいの?」
「それは困るなぁ。この家を継ぐのはいやか?」
「ううん、いやじゃないよ。この家が好きだもの」
「そうか、それは良かった」
黎明は優しく微笑んだ。
「嬉しい?」
「あぁ、嬉しいよ。でもそのためには、もっと勉強をがんばらないとな」
「勉強が必要なの?どうして?」
「そうだなぁ。巴慧は、人が平等だと思うか?」
「もちろん。そんなの決まってるじゃない」
「では、平等とは、何を意味すると思う?」
平等とはなにか?そんなことをいきなり言われても、うまく答えられない。困った顔で考える巴慧に黎明は言った。
「私が考える平等とは、ひとりひとりが己の足で立ち、人生を歩んでいける力をつけるということだ。女だからとか、身分がどうとか、そんなことは関係ない。自分の力でしっかりと生きていける術を身につけることが大事なのだよ」
真剣に耳を傾ける娘を黎明は抱き寄せた。
「もちろん、人は支え合って生きているものだから、ときには人を頼ったっていいし、支える側に回ってもいい。けれど、いつだって歩む道が平坦とは限らないだろう?長い道だ、何が待ち受けているか分からない。けれど、力をつけている人間は、いざというときにしっかりと立てるものだ。転んでも、立ち上がれるものだ。その力をだれもが手にすることのできる世界。それが、私の考える平等というものなのだよ」
「もっと勉強すれば、その力をつけられるの?」
「そうだな。少なくとも、壁にぶつかったとき、それを乗り越える術を与えてくれるだろうな。知識とはそういうものだ」
「この家を継ぐためにも、勉強ができた方が良い?」
「もちろんだよ」
それを聞くと、巴慧は元気よく立ち上がった。
「それなら、もっと勉強する!それで、お父様の言う『力』を身につけるわ!」
娘の宣言を聞いた黎明は、相好を崩して頷いた。
「それは頼もしい。思う存分、がんばりなさい」
 それからというもの、巴慧は勉学に勤しむようになった。以前は男性しか受験することが叶わなかった様々な試験が、黎明の働きによって女性も受けられるようになった。そして、この数年の間に、女役人が数名誕生した。
(お父様の目指す平等な世界が、少しずつ実現してきている)
そう思うと、巴慧の胸は高鳴った。私も負けてはいられないと、官人登用試験の合格を目指し、懸命に励んだ。そして、ひと月ほど前に試験を受けたばかりであった。結果が出るのはまだ先だが、手応えはあった。試験に受かれば官府で働き、ゆくゆくは官人として遠い異国へ行きたいと思っていたのだ。

それなのに・・・。腹立たしい、悔しい、悲しい、虚しい。なんとも言えない感情が巴慧の心を蝕んだ。
(とにかく比永の街へ行く。そうすれば、何かしらの逃げ道が見つかるわ)
そう思った。
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