四、残された文

文字数 2,476文字

「当主様、よろしいでしょうか」
昼食もとらずに悩ましい顔で報告を待っていた黎明(れいめい)の元へやって来たのは、侍者の(みなと)ではなく、巴慧の付き人の与佐子(よさこ)であった。
「入りなさい」
主の顔色を伺うように、与佐子はおずおずと襖を開けた。
「あの、巴慧(ともえ)様のご様子がおかしいのですが」
「様子がおかしい?」
「はい。昨夜お休みになる前に、今日は疲れたのでゆっくり眠りたいから、明日の朝は起こさないでほしいと言われたんです。朝食はどうされますか?とお伺いしましたところ、朝食もいらないとおっしゃいまして」
「体調が悪いのか」
「わかりませんが、朝食は持ってこなくて良いと、食べたくなったら呼ぶから、そっとしておいてほしいと言われましたので、そのようにいたしました」
黎明は眉根を寄せた。その険悪な表情を見た与佐子は叱咤されているのだと思い込み、目に涙を浮かべた。
「まだ部屋から出てこないのか」
「はい。あまりに遅いので、先ほど部屋まで行ってお呼びしたのですが、お返事がないのでございます」
「返事がない?」
「よほど深く眠っていらっしゃるのか、何度お声がけしても返事がないのです」
「そんなもの、無理やりにでも開ければ良いではないか!」
黎明が声を荒げると、与佐子は震えあがった。温厚な黎明には全く似つかわしくない態度だ。
「開けようとしたのですが、その、中から鍵がかけられているようで、開けられないのです」
黎明は立ち上がった。
「もう良い!私が行く」
嫌な予感が胸をよぎった。昨日の、「もう少し待ってほしい」と懇願する娘の顔がちらつく。大丈夫だ、案ずるな。神経が高ぶっているだけだ。どうせ、へそを曲げて布団に包まっているのだろう。そう思えば思うほど動かす足は速くなり、あっという間に目的地へ到着した。
「巴慧!」
部屋の前で娘の名を呼ぶ。しかし、応答はない。
「巴慧、いるのだろう?返事をしなさい!」
いったい何をしているのだ。力任せに開けようとするが、戸はぴくりとも動かない。
「巴慧!いいかげんにしなさい!」
がたがたと戸の軋む音が響いた。
「下がっていなさい」
おろおろしている与佐子に命じると、黎明は戸に拳を打ち付けた。何度も叩きつけていると、ようやく戸が木枠から外れた。
「巴慧!」
中に入り呼ぶが、その姿はどこにもない。
「いったい、どこへ行った」
綺麗に片づけられてある寝具が目に留まった。庭から差し込む陽光が殺風景な空間を照らしている。
「巴慧様!」
呆然と立ち尽くす黎明を押し退けて、与佐子は巴慧の名を呼びながら室内を駆けずり回った。いつもは敷地内にある書斎へ行くときでさえ必ず知らせてくれる巴慧が、何も言わずに何処かへ行ってしまったことが与佐子をひどく動揺させた。寝間をくまなく探し終えると、隣接している着衣室へ入って行った。
「当主様!」
すぐさま、耳を割く叫び声が上がった。
「どうした?」
急いで駆けつけると、与佐子が着物入れの前で座り込んでいる。
「着物がなくなっています。ほかにも、いろいろなものがなくなっています!」
ここには巴慧の着物や装飾品の全てが置いてある。幼い頃から身の回りの世話をしてきた与佐子は一目で異変に気付いた。
「髪飾りや簪、翡翠や紅玉などが見当たりません。着物もなくなっています!」
悲痛な声を上げながら、ほとんど空になった箪笥の引き出しを次々に開けて回った。
 黎明は呆然と立ち尽くした。巴慧は父と同様に無駄な贅沢を嫌い、わずかなものしか持っていない。「これだけあれば十分!」そう言って、上等な着物や装飾品をすぐに人に分け与えてしまうのだ。だが、祝事に父や知人から贈られたものは大切に保管していた。それらがごっそりと無くなっている。
「ああ、なんということでしょう、まさかそんな・・・」
与佐子は膝から崩れ落ちた。巴慧が出て行ったことは明らかだった。黎明は力なく膝をつくと、震える指先で着物入れに触れた。
「いったい、どこへ行ったというのだ」
魂の抜け殻のように座りこんでいたが、ハッと我に返ると、黎明は尻を蹴り飛ばされたかのように跳び上がった。そして、理性を失った獣のように廊下へ向かって突進した。
「誰か、誰かいないか!」
走りながら、力いっぱいに叫んだ。
巴慧!どこだ、どこへ行った?なぜ、今なのだ?よりによって、なぜ今なのだ!
「どうされましたか?」
湊が駆け寄ってきた。
「今すぐ、鳥次(ちょうじ)を呼べ!巳玄軍に出動を命じる!巴慧を探し、保護するのだ!」
黎明の鬼気迫る形相を見た湊は全てを察した。
「承知いたしました!」
なんということだ!巴慧様までいなくなってしまった! 走りながら湊は心の中で叫んだ。なぜ今なのかと、胸が引き裂かれる思いだった。文を書いている暇はない。説明している暇もない。湊は馬に跨った。
(黎明様、どうか、お気を確かに!すぐに、鳥次様を連れてまいります!)
向かい風が乾いた土埃を吹き付ける中、湊は巳玄軍司令部を目指し、懸命に馬を走らせた。

 頼む、無事でいてくれー。
 震える手で珠玉(しゅぎょく)を握りしめながら、ひたすらに秘言を唱え続ける黎明の元へ与佐子が一通の文を持ってきた。生唾を飲み下し受け取ると、「お父様へ」と記されている。恐る恐る紐をほどくと、文にはこう綴られていた。
「お父様、ごめんなさい。やはり、まだ心が決まりません。いつか必ず帰ってきます。どうか、しばらくの親不孝をお許しください。巴慧」
目の前が真っ暗になった。力という力が全て足元から抜け落ちる。まだ心の片隅に、街へ出かけただけで夕刻までにはひょっこり帰ってくるのではないか、私物を隠したのはほんのいたずらで、どこかでお茶でも飲みながらほくそ笑んでいるのではないかと、かすかな希望を捨てきれずにいた。しかし、光は完全に消え失せた。安心して立っていた地面が、がらがらと音を立てて崩れていく。
「巴慧様、いったいどこへ、どこへ行ってしまわれたのですか」
与佐子のすすり泣きが、耳の中でこだまする。

世界が、変わってしまった。

もう元には戻らない。巴慧を連れ戻し、この腕で抱きしめるまでは、決して戻らない。
絶望の淵に突き落とされた黎明は固く目を閉じ、天を仰いだ。
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