一、月の夜の少年(3)

文字数 2,735文字

 碧い月明りに映し出される姿に巴慧は息を呑んだ。満月の夜に地上へ降りてきた竜だろうか。少年の体は月光を纏い、強い気を放っている。この世のものとは思えない幻想的な姿に巴慧は目をこすり、現実であることを確認するかのように瞬きをくり返した。
 少年は巴慧の存在には気づかずに、ふらふらと川の方へ近づいてくる。雲が流れて、少年の姿が照らされた。巴慧は何もかも忘れ去り、ただ少年を眺めた。  
 足元がふらつき、小さな岩に爪先がぶつかった。すると少年は音に反応し、顔をこちらへ向けた。その体はぼろぼろの衣を纏い、長く伸びた髪は乱れている。巴慧はハッと目を見開いた。蒼白い顔から放たれた鋭い眼光が、まっすぐこちらに向けられている。目が合った瞬間、時が止まった。
 しばしの間、二人は見合ったまま動かなかった。巴慧の方は動けなかったと言った方が正しい。少年の方は巴慧が自身に危害を加えるものかどうかを見定めようとしているかのようだった。先に動いたのは少年だった。目をそらすと、川へ向かって一歩一歩、足を引きずりながら近づいてきた。
 そうして水の流れるところへ辿り着くと、覆いかぶさるようにして川面に顔を突っ込んだ。まさか、死ぬつもりなのか?反射的に体が動いたとき、がばっと水しぶきを上げながら少年は顔を上げた。じっと様子を窺っていると、何度も同じことを繰り返している。いったい、何をしているのだろう。そう思ったが、次第に少年がたんに水を飲んでいるだけだということを理解した。が、まるで獣のようだ。初めて水を見たかのように貪っている。巴慧は呆気にとられた。
 限界まで飲み続けた少年は最後に顔を高く持ち上げると、そのまま倒れ込み、どさっという音を響かせた。巴慧の目には少年の体が突然に崩れ落ちたように見えた。
 巴慧は慌てて川へ入った。ふくらはぎに刺すような冷たさを感じたが、一心不乱に水をかき分けて川を渡った。
「大丈夫ですか?」
なんとか川岸へ辿り着き、這うようにして少年の元へ走った。恐る恐る顔を覗き込み、声をかける。
「あの、大丈夫ですか?ねぇ、起きてください、どうしたのですか?」
肩を揺さぶってみる。気を失っているようだ。巴慧はおろおろと辺りを見回した。医者へ連れて行かなければ。けれど、こんな山中に医者がいるはずもない。家へ連れて帰ろうか。いや、家まではかなり距離がある。それならいっそ、このまま比永の街を目指した方がいい。街へ連れて行けば医者がいる・・・。考えを巡らせながら、体はすでに動いていた。   
 巴慧は少年を背負い、再び川を渡った。そして、山の奥深くへ入っていった。
「大丈夫だからね。ちゃんと、お医者さんのところへ連れて行ってあげる」
言葉をかけながら、ずり落ちそうになる少年を背負い直した。すでに疲労は限界に達している。けれど、背中から伝わる重みと体温が力を与えてくれるように感じた。
 暴れる心臓が口から飛び出てきそうだ。筋肉が皮膚を突き破りそうだ。だが、鉛のように重い足が前へ動いていく。枝にぶつかっても、葉に顔を切りつけられても痛みは感じない。歯を食いしばり、巴慧は一歩一歩、着実に歩を進めた。
 
 月の光が日の光に移り変わる頃、一心不乱に歩き続けた巴慧は山を越え、街のすぐ近くまで来ていた。足を止めて目線を持ち上げると、闇と化していた空に淡い橙色の光が混ざり始めている。小刻みに息を吐きながら、巴慧は虚ろな目で日の出を眺めた。
 さすがに疲れた。少しだけ休もう。人が動き出す前に街へ入りたいが、もう動けそうにない。巴慧は崩れるように地面に横たわった。冷たい土と湿った草の感覚が気持ち良い。ゆっくりと顔を横へ向けると、一緒に倒れ込んだ少年の顔が目の前にある。巴慧は初めて、少年の顔を光の中で見た。きめの細やかな肌は透き通るように白く、形の良い眉の下に、筆をなめらかに滑らせたかのような瞼がある。長い睫毛が頬に線を描き、細い鼻筋の先が少し汚れている。
「きれいな子」
頬から顎までの線をゆっくりと目でなぞりながら、遠のいていく意識の中でそう呟いた。
 
 どれだけ寝ていただろうか。うっすらと瞼を持ち上げると、猫のような黒目がふたつ、目の前にある。朦朧とする意識の中で、ずきずきと痛む足の感覚だけがはっきりしている。
(あれ、私、どうしたんだっけ)
記憶を探るように瞬きを繰り返していると、黒い目が一気に遠ざかった。
「あれ?」
頭を持ち上げて、辺りを見回す。
「そっか、私、あなたを運んできたんだった」
ゆっくりと身を起こし、黒い目の主に微笑みかける。
「目が覚めたのね。体の調子はどう?」
少年は目を見開いたまま背中を丸めた。まるで臨戦態勢の猫だ。
「えっと、あなた川で倒れたの。覚えてない?」
しばらく待つが、返事はない。
「あの、言葉、わかりますか?もしかして、違う国の方ですか?」
何も言わない。これは困った。言葉が通じないとなると、どう伝えれば良いかわからない。巴慧は悩んだ。体は大丈夫だろうか。
「あの、体は大丈夫ですか?今から、お医者さんのところへ行こうと思うんだけど、連れて行っても大丈夫?」
身振り手振りで伝えようとするが、少年は一切の反応を見せない。さて、どうしたものか・・・。しばらく考えたが、考えたところでやることは変わらない。
 巴慧はゆっくりと立ち上がり、手を差し出した。少年の目線の先が巴慧の顔から手先へ動く。しばらく凝視した後に、少年は眉間に小さな皺を作った。お面のように感情を見せなかった少年が初めて見せる「表情」だった。巴慧は思わず笑ってしまった。よかった、ちゃんと感情があるらしい。安堵し、「行こう」と言って手のひらを突き出すと、少年は獣のように唸り出した。
「行きたくないの?」
背を丸めて威嚇しながら後ろへ下がっていく少年に、
「大丈夫よ、悪いようにはしないから。一緒に行こう」
と優しく言ってみたが、ぶるぶると首を横に振られてしまった。本当に猫みたいだ。毛があれば思いっきり逆立っているに違いない。静かに近づき、そっと少年の指先に手を触れた。皮膚から伝わる感触は冷たくて、かさかさに乾いている。少年は手を引っ込めると、目尻を吊り上げて巴慧を睨んだ。
「大丈夫。一緒に行こう」
巴慧は少年の手をそっと握った。
「私を信じて」
まっすぐに目線を合わせた。信じてほしい、ただそれだけだった。少年は目を見開いたまま巴慧を凝視していたが、少しずつ体の力を緩めていった。そして、小さく頷いた。
(よかった)
巴慧は胸を撫で下ろした。手を引っ張ると少年はゆっくりと立ち上がり、引かれるがままに歩き出した。巴慧はなにも言わなかった。少年も黙ったまま、舗装のされていない道を、おぼつかない足取りで下りていった。

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