二、老街の住人(2)

文字数 2,474文字

「あれ、巴慧ちゃん!?」
静まり返った室内に大きな声が響いた。
「やっぱり巴慧ちゃんだ!ばあちゃん、なんで巴慧ちゃんがここにいるのさ?」
「着いて早々やかましい子だね。見りゃ分かんだろ、寝てんのさ」
「なんだよそれ。ちっとも分かんねぇよ」
声の主は医者の八朔(はっさく)ではなく、助手のカイリである。カイリは幼いころに道端でうろついていたのをミトが見つけて、そのまま引き取った孤児である。歳は十五前後といったところで、「医学の道へ進みたいから助手にしてくれ」と八朔の元へ押しかけてから、およそ一年になる。早朝から休むことなく診療所へ通い、助手の仕事をしながら医療を学んでいる。「働きすぎは良くない。早く帰りなさい」と言われて夕方には追い出されるはずだが、いったいどこをほっつき歩いているのか、帰宅するのはいつも夜が更けてからだった。「どうせ言っても聞かないんだから。好きにすりゃいいさ」と、ミトは好きにさせている。
 カイリは飛び跳ねるようにして布団の傍まで来ると、目を輝かせながら巴慧の寝顔を覗き込んだ。
「起こすんじゃないよ!さっき寝たとこなんだから!」
小声で叱ると、ミトは医者に向かって頭を下げた。
「先生、わざわざ御苦労さまです。まずはこの子たちを診てやってほしいんですけど、いいですか?」
「巴慧ちゃん、どっか悪いのか?」
布団の方からカイリの甲高い声がした。
「巴慧ちゃんはしっかり寝れば回復するさ。問題はそっちの男の子の方だね」
カイリは隣で寝ている少年の顔をしげしげと観察した。
「見たことねぇ顔だな。どしたの?この子」
「さぁね、それは私らには関係のないことさ。ほら、ぼぉっとしてないで、さっさと二人を起こしな」
「寝たばっかなんだろ?起こしていいのか?」
「起こさなきゃ診察できないだろ?ほら、さっさとしな」
起こすなと言ったり起こせと言ったり、まったく気まぐれなばあさんだぜと、カイリはぶつくさ言いながら布団を優しく叩いた。
「巴慧ちゃん、巴慧ちゃん、起きな、八朔先生が来てるよ」
何度か呼びかけると、巴慧はゆっくりと目を開けた。
「おはよう、巴慧ちゃん!」
「・・・カイリ?」
「そう、カイリだよ!巴慧ちゃん、なんでこんなとこで眠りこけてんの?」
カイリの笑顔はお日様のように眩しい。目を細めていると、
「どうやら、言えない理由がありそうだな」
と、八朔が布団の傍に腰を下ろして言った。ハッと我に返り体を起こすと、巴慧はすがるように八朔の袖をつまんだ。
「先生!すぐに、この子を診てほしいのですが」
「分かっているよ」
場所を譲るために急いで布団から出た。八朔はうつ伏せで寝ている少年の右手首をつかみ、目を閉じて脈の音に意識を集中させた。難しい表情で少年の体を仰向けにしてから布を剥ぎ取ると、「これは・・・」と絶句した。
 その場にいた誰もが言葉を失った。少年の体は贅肉をすべて削ぎ落したかのように骨が浮き出ている。肌は白く、とても血が流れているようには見えない。
「これは、いくらなんでも痩せすぎだ。いったいなにをどうすれば、こうなるんだ」
八朔は痛ましそうに表情をゆがめた。骨が皮一枚をまとっただけの上半身を見た途端に巴慧は右手で口を覆い、左手を少年の方へ伸ばした。だが、触れることはできなかった。こんな状態の人は見たことがない。想像したことすらなかった。
「かわいそうに、こんな体でよく生きてるよ」
ミトの言葉が心を突き刺した。感情がぽろぽろと目からあふれ出し、巴慧は声を押し殺して泣いた。なぜだかは分からないが、苦しくて、苦しくて、涙が止まらなかった。
「巴慧ちゃん、大丈夫さ。これからいっぱい食べれば、すぐに元気になるよ」
励ましながら巴慧の背中をさするカイリも、内心はひどく動揺していた。
(こいつ、どっから来たんだ?こんな体のやつ、見たことねぇぞ。どこで巴慧ちゃんに会ったんだ?)
疑念に満ちた目で少年を見下ろしていたが、やがて口を開いた。
「こいつの左手、どうしたんだ?怪我してんのか?」
カイリが示す方を見ると、少年の左手、正確に言えば手首から肘にかけてまでが包帯でぐるぐる巻きにされている。包帯は黒ずみ、まるで炭のようだ。
「いったいどうしたんだ、この腕は。怪我をしているなら、きちんと手当をしなければ」
状態を調べるために剥がそうと試みたが、包帯は石炭のように固くて何をどうやっても外せない。
「なんだこれは?全く取れないぞ」
包丁を用いて剥がそうとしたが徒労に終わった。
 諦めて、八朔は少年の病状を調べることにした。数カ所に手を当てて、体内を巡る気血を探る。
「大きな病はなさそうだが、脈が弱く、体が衰弱しきっている。しばらくは安静にして、体力を快復させることに専念した方がいい」
「大きな病気ではないんですか?」
巴慧が尋ねた。八朔が頷くと、室内に安堵のため息がもれた。
「ちゃんと食べれば、良くなりますか?」
「時間はかかるだろうが、少しずつ良くなる。大丈夫だよ」
「ありがとうございます」
涙を拭いながら、巴慧は何度も頭を下げた。
「しかし、左腕はどうしたものかなぁ。随分と前から巻きつけてあったようだし、すぐにでも取り替えてやった方が良いのだが・・・。風呂に入ってふやかせば、なんとか剥がせるかもしれないな」
「カイリ、聞いたかい?その子が起きたら風呂に入れてやんな」
すかさずミトが言った。
「えー、なんで俺が?いやだよ、ばあちゃんが入れてやれよ」
「こんな年老いたばばあに入れろってのかい?おまえは鬼の子か!」
「私が入れます!私が連れてきたんだし」
巴慧が言うと、とんでもないと言う顔でカイリは首を横に振った。
「だめだよ!巴慧ちゃんは男風呂には入れないだろ?」
「そっか、そうだね」
「いいよ、分かったよ。俺が風呂屋に連れてってやるよ」
渋々とカイリは承諾した。
 最後にミトの診察を終えると、八朔は診療所へ帰っていった。傷だらけの巴慧を見ても何も言わなかった。今はそっとしておこうという八朔なりの気遣いなのだろう。ミトも特別なことは何も言わなかった。ここで見たことを誰かに漏らすような男ではないことを知っているからだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み