三、老湾へ

文字数 2,454文字

 戸が軋む音で一新(いっしん)は目を覚ました。隣を見ると、巴慧はまだ寝ている。隙間から入り込む光が目に痛い。
「おはよう、よく眠れたかい?」
ミトとカイリが野菜を抱えて入って来た。昨夜、巴慧が千錠していたはずだが、やはり効果はなかったらしい。
 一新は布団から這って出ると、ふたりを警戒しながら部屋の隅までじりじりと後退し、壁にぶつかった。
「まったく、おかしな子だね。べつに取って食いやしないよ」
やれやれと呆れた様子でミトは肩をすくめた。
「巴慧ちゃん、朝飯の時間だよ」
カイリが巴慧の肩をつつくが、起きる気配がない。よし、久しぶりにやるかと不敵な笑みを浮かべてから、カイリは強く巴慧の肩を揺さぶった。これで起きない者はいないだろう。さぁ、起きろ!頭がぐるぐると円を描き、ようやく巴慧は目を覚ました。
「やっと起きた!」
カイリが犬であれば、ぶんぶんと尻尾を振っているに違いない。巴慧は虚ろな目でカイリを眺めた。
「もうちょっと寝かせてやりたいけどさ、ばあちゃんがごはんの準備始めちゃったから」
カイリは親指で台所に立つミトの曲がった背中を指した。
 巴慧は起き上がり、洗面台で顔を洗った。右頬を拭きながら室内を見回すと、一新が壁際でうずくまったまま三人の動きを見ている。
「一新もおいで!顔を洗うとすっきりするよ」
そう声をかけると、カイリがいち早く反応した。
「一新?そいつ、一新っていうのか?」
「そう、一新よ」
「こいつがそう言ったのか?こいつ、話せんのか?」
「もちろん、話せるわよ」
得意げに言うと、カイリは口を尖らせた。
「なんだそれ。俺にはふんともすんとも言わなかったくせに」
「いいじゃないか。名前が分かっただけで儲けもんさ」
ミトが大皿を卓に置いて言った。
 朝食の準備が整った。
「ほら、たんと食べて太んな」
出汁で炊いた粥をたっぷりと茶碗に入れて一新に渡すと、ミトは凄まじい勢いで饅頭を口に詰め込み始めた。
「慌てんな慌てんな。ちゃんと噛めよ。ゆっくりだぞ。喉に詰まらせても知らねぇからな」
カイリの忠告を完全に無視して、ミトは粥を一気に飲み干した。相変わらずの早食いっぷりに巴慧はけらけらと笑った。
「ったく、これだから貧乏人は困るぜ。品ってもんがねぇんだから」
「どの口が言うんだい?ぽろぽろぽろぽろ米粒をこぼしまくるガキのくせに」
「昔のことだろ?今はこぼさないもんねー」
程度の低い痴話げんかを一通り披露し終えると、カイリは巴慧に話しかけた。
「早速、質屋に行くだろ?今日は休みをもらったから、俺が連れて行ってやるよ」
老街で育ったカイリは、複雑に絡み合う路地から地下に張り巡らされる水路に至るまで、この一帯の地理を知りつくしている。そしてそれは、街の中心部から忘れ去られた貧民街の更に奥深くに潜む、憲兵ですら容易に立ち入ることのできない場所においても同様であった。故郷を追われた者、職を追われた者、表の世界で生きるのを拒む者・・・。それらすべてを吸い込み、異質な光を放つその界隈は「老湾(ろうわん)」と呼ばれ、まともな人間であれば誰もが「決して足を踏み入れてはならない」と恐れる場所だ。
「まぁ、ちょっくら変わったところだけどね。なぁに、不安になるこたぁないよ。あの辺りは憲兵もいない。心配せんでも告げ口するような奴はいないから」
ここで急に声色を変えて、「カイリ、しっかりやるんだよ!」とミトは厳しく言いつけた。
「わかってるよ!」
まったく、誰に向かって言ってるんだ。文句を言いたい衝動を抑えながら席を立つと、カイリは衣装棚から紺色の着物を持って来た。
「ほら、これを着なよ。男になるんだろ?俺のだけど、身丈は合うと思うぜ」
「おまえがチビで助かったよ。なぁ、巴慧ちゃん」
「うるさいな!俺はまだ十四だぞ。これからでかくなるんだよ。口の減らねぇばあさんだな」
まったくもう、とぶつくさ言いながらカイリは鋏を手に取った。そして路地へ出て巴慧を呼ぶと、そのまま地べたに座らせた。
「髪を切るんだろ?俺が切ってやるよ」
鋏を見ると、ぼぉっとしていた一新が血相を変えて、二人のところへすっ飛んできた。
「なんだよ、髪を切るだけだよ。おまえも昨日切ってやっただろ?」
一新は素早く鋏を奪うと、ぽいっと放り投げてしまった。
「あ!こら、何すんだよ!」
カイリが拾いに行っている間に一新は巴慧の手首を掴み、小屋の中へ引っ張った。
「大丈夫よ。髪を切ってもらうだけだから。カイリは手先がとっても器用なの」
そう言って宥めたが、髪を切る間、一新はずっとカイリを見張り続けた。カイリは終始、うんざりした顔をしていた。
「ほら、できたぞ」
渡された手鏡を覗くと、長かった髪が肩の少し上まで綺麗に切り揃えられている。巴慧は笑った。
「なんだか子供みたい」
鏡の中から見つめ返してくる顔がずいぶんと幼い。こんなに短くしたのはいつぶりだろうか。
「八つぐらいまでは短かったけど、生まれて初めて短くしたような気分だわ」
なんだか心まで軽くなったようで、とても新鮮だ。
「良いじゃないか!似合ってるよ」
小屋の中からミトが感想を述べた。
「男の子に見える?」
「そりゃどうかねぇ。ま、カイリと歩いてたら、兄弟に見えなくもないかね」
巴慧とカイリは顔を見合わせた。
「さてと、そろそろ行くか」
着物についた髪を払い落とすと、カイリは一新に人差し指を突き出して言った。
「おまえはここにいろよ。ついてくんなよな」
ついて行く気満々だったらしい。一新の表情がたちまち曇った。
「すぐ帰ってくるから、ミトとここで待っててね」
巴慧の言葉には素直に頷く一新をカイリが横目で睨む。
 二人が出て行くと、一新は部屋の隅で蹲り、両手で身体を包んだ。
「やれやれ、そんなに警戒せんでくれ」
湯呑に茶を注ぐと、ミトは一新の前に置き、少し離れたところに腰かけた。
「おまえさんは巴慧ちゃんのことを、どれぐらい知ってるんだい?」
そう言うと、一新は少しだけ顔を上げた。
「勝手にしゃべるけど、これは独り言だからね。聞き流してくれていい」
少年が耳を傾けているのを感じ取ると、ミトは話し始めた。
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