三、老湾へ(2)

文字数 2,327文字

「もう何年になるかね。巴慧ちゃんがまだ十歳ぐらいのころ、カイリは七つぐらいだったかね。繕った着物を売りに大通りの方へ歩いてたら、倒れちまったんだよ。ずっと昔からここに住んでたんだけど、手先が器用だったから仕立て屋の仕事をしてたのさ。贅沢はできないけど、カイリの腹を満たす分くらいは稼げてた。身分相応の質素な暮らしさ。金はないけど健康にだけは自信があった。けど、その頃はどうも胸の辺りがちくちくしてね。あまり具合が良くなかったけど、まぁそのうち治るだろって思ってた。そしたらある日、道端で倒れちまった。意識はあったけど、体が動かなくってね。あんときは、『あぁ、死ぬんだな』って思ったよ。そしたら、女の子が駆け寄ってきて、『大丈夫ですか、大丈夫ですか』って背中をさすってくれたんだよ。それからのことは覚えてない。しばらく寝てたらしい。で、目を開けると、心配そうにのぞき込む女の子の顔があった。その後ろに、四十歳ぐらいの女の人もいたよ。『先生、起きました!早く来て!』って、その子が可愛い声で言うんだよ。声だけじゃなくって、顔も可愛かったね。今でも目に浮かぶよ。そんときの先生ってのが、八朔先生さ。街の外れに診療所をやっていて、そこに運ばれてたってわけ。こんな貧乏人が診てもらえるような先生じゃないんだけどね。それからしばらくの間、そこで面倒を見てくださった。カイリも毎日、顔を見に来てくれたよ。すっかり先生に懐いて、自分も医者になりたいって言うようになった。この街では薬代が高くてね。貧乏人には、なかなか手が届かない代物さ。けど、八朔先生は『薬代はいりません』って言ってくれた。不思議だったよ。なんでそこまでしてくれるんだってね。こんな死にかけの婆さんに」
そこまで一気にしゃべると茶をすすり、路地の方へ目をやりながら話を続けた。
「動けるようになって家に戻ってからも、先生は薬を持ってきてくださった。それからずっと、この辺りの家を廻っては、具合の悪い人を診てくださってるんだよ。お金は一切取らずにね。みんな先生には感謝してんのさ」
一新は膝の上に顎を乗せて話を聞いていた。
「そんときの女の子が巴慧ちゃんさ。助けてくれた後も診療所へ来ては、ぺちゃくちゃと可愛い声でいっぱいおしゃべりしてくれた。可愛かったよ、ほんとに可愛かった。診療所を去るときに寂しそうな顔をしてるから、ここの簡単な地図を描いて渡してやった。いつでもおいでって。そしたら、しばらく経ったころ、本当にやって来たのさ。びっくりしたよ。だって、まさか本当に来るとは思わないだろ?こんなぼろ屋にさ。しかも、たったひとりでだよ。いつも一緒にいる女の人はどうしたのって聞いたら、置いて来たって笑顔で言うんだよ。こっちもつられて笑っちゃったよ。それからは、ちょくちょく顔を見に来てくれるようになった。毎回、なんだかんだと小さな手にいっぱいお土産を抱えて持ってきてくれたよ。着物とか、野菜とか豆とか、上等な簪を持ってきてくれたこともあった。あたしにはもったいないから、いつか好きな子ができたらあげなってカイリに譲ってやったよ。それ以外にもね、いろんなものをくれた。全部大事にとってあるよ、その中にね」
ミトは部屋の奥に置いてある古びた箪笥を見ながら目を細めた。気難しそうな老婆の顔に微笑が浮かぶのを見たとき、一新は心になにかが灯ったような不思議な感覚を覚えた。そして、戸惑った。
「巴慧ちゃんは自分のことはほとんど話さなかった。私も聞かなかったしね。本人が話さないのに聞くのは野暮ってもんだろ?でも、初めて見たときから、良いところのお嬢ちゃんだってことくらい、すぐに分かったさ。質素な着物を着て、本人は目立たないようにしてたけどね。いつも一緒にいたあの女の人も品の良い人だった。巴慧ちゃんもしゃべり方から身のこなしまで、普通の子とは全然違ったよ。どうやって家を抜け出して来てたかは知らないけど、あの女の人も目を瞑ってたんじゃないかね。ここは貧しいし、古くて汚いところだけど、幼い女の子を襲うような輩はひとりもいないからね」
少しの間、静かな時が流れた。
「先生に薬を持って来るよう頼んだのも、巴慧ちゃんじゃないかって思うんだ。先生のところでお世話になった分も、巴慧ちゃんが何とかしてくれたんじゃないかってね」
そこまで話すとミトはゆっくりと立ち上がり、台所に置いてあった野菜入れから何か掴むと、
「ほら、食うかい?」
と言って一新に手渡した。緑色の細長いもので、触るとぶつぶつしている。じっと見ていると、
「きゅうりだよ。知らないのかい?変わった子だねぇ」
と言って、ミトは笑った。
「私はね、あの子が好きなんだよ。助けてもらったってのもある。でも、それだけじゃない。みんなあの子が好きなんだ。ここにいる連中はみんな巴慧ちゃんが大好きさ。みんな、なんとなく分かってる。巴慧ちゃんがどういう家の子かってことはね。でも、何も言わない。ここに来たときくらいすべて忘れて、心の底から笑ってほしいじゃないか。カイリもそうさ、あの子もきっと色々分かってる。何も言わないけどね」
ぽりぽりときゅうりを噛み砕く音に、外から届く幼い笑い声が混じった。昨日は祭りで人通りが少なかったが、今日はいつも通り、子供たちが玉遊びをしている。
「あの子がどうして逃げ出して来たのかは分かんないけど、助けが必要だって言うなら、いくらでも助けてやるさ。おまえさんも、あの子が連れて来た子だ。できる限りのことはしてやるからね。ここにいたければ、いたいだけいればいい」
一新と目が合った。瞬きもせずに見返してくる目は水晶のように澄んでいる。
(きれいな目だね・・・)
そう思った。
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