二、そのモノ、消息を絶つ

文字数 3,762文字

 湿気が骨にしみる暗い室内に、窓から一筋の光が差し込んだ。それを布団の隙間から見ていた成貴は、またすぐに顔を伏せた。天日干しをしていない布団は黴臭く、いくら包まっても手足は冷たいままだ。
 いつから太陽は、こんなにも忌々しいものになったのだろう。以前は心を明るくしてくれていた光が、今は疎ましくてたまらない。もう二度と、朝日を浴びながら庭を歩き、与えられる恵みに手を合わせることはないだろう。何も知らずに未来に思いを馳せて、期待で胸を膨らませていたあの頃の自分が恨めしい。
 あの日、あの男が現れるまでは幸せだった。決して逃げることのできない運命の渦中にいたことを告げられるまでは、この目に映る景色は美しかった。そして、その日々は手の内から滑り落ちてゆき、もう元に戻ることはない。
 成貴は重い体をひきずるようにして風呂場へ行くと、冷たい水を頭からかぶせた。そして、それを執拗に繰り返した。あの日以来、水を浴び続けている。体に障るからやめなさいと母に言われても無視した。何もしないでいる方がよほど体に障る。こうしていないと、正気を保っていられないのだ。
 これから五度目の勤めがある。何者かから託される荷物を三日に一度、洞穴へ運ぶのだ。前回の任務から六日が経つ。ここ数日は食べ物も喉を通らず、水ばかり飲んでいる。眠ろうとしても手足の震えが止まらず、布団を頭からかぶって守護の呪文を唱え続けている。そうしていないと、かちかちと軋む歯の音がうるさくて気が狂ってしまう。
 この任務を遂行するのは三人。成貴と章桂、そして作郎(さくろう)と呼ばれる男である。初回は作郎と行った。そして、二回目は章桂と行い、その次は休みだった。つまり、二回続けて行うと、五日間はこの任務から解放される。とは言え、わずか五日だ。その後はまた順番が回ってくる。三日に一度の務めは、ぐるぐると三人の中を順に回ってゆく。いったい、いつまで続くのか。
―まるで針の上を延々と歩き続けるようなものだ。
九日前、作郎が気になることを口にするまではそう思っていた。これは果てしなく続いていく任務なのだと・・・。しかし、作郎は章桂以上に窪んだ目で、こう言った。
「私はもうすぐ、この任務に就いてから三年になる」
こんなことを三年も続けているのか。枯れ葉のような顔に畏敬と哀れみの入り混じった眼差しを向けながら続きを待っていると、
「この役目に就いた頃、私より先に二人の男がいたが、そのどちらも三年を期に職を解かれた」
と、作郎は不明瞭な声で言った。
「それは、三年勤めれば自由になれると言うことですか?」
本来、職を失うのは喜ばしいことではない。しかし、この任務に限って言えば、願ってもないことである。藁にも縋る思いで成貴は作郎の腕を掴んだ。
「自由に、か。ある意味そうかもしれん。三年が過ぎたと同時に、二人とも姿を消したのだから」
「姿を消したとは、どういうことですか」
「言葉通りの意味だ。忽然と消えたのだよ。誰もその消息を知るものはいない」
急な吐き気に襲われたように、作郎は口元を手で押さえた。
「それは、つまり、消されたということですか?」
自ら発した言葉の重みに全身が震えた。
「真相は誰にも分からん。まぁ、私はもうすぐ知ることになるだろうがね」
作郎の乾いた笑い声が耳にこびりついた。
 それからというもの、毎晩のように悪夢を見る。これは永遠に続く苦難の道ではない。終わりがあるのだ。行きつくところまで行きつくと、崖から突き落とされるのだ。
 日が沈むのと同時に水と粥だけの質素な食事を取り、身支度を整えた。粥など何の栄養にもならないと母は身を案じてくれるが、栄養が足らずに死んでも別に構わない。生きていてもなんの意味もない。むしろ楽になるではないか。牢獄で足枷をつけられた囚人と変わらないのなら、いっそこの肉体を脱ぎ捨ててしまえばいい。
 支度を終えると、重い足取りで章桂の待つ場所へ向かった。
「ひどい顔ですね」
亡霊のような顔で現れた成貴を見た章桂は、作郎よりも乾いた声で言った。成貴の身を案じるというよりは、ただ感想を述べた、そういった様子だ。
「すみません。大丈夫です」
「今日は作郎殿の代わりに私が来ました。急用だそうです」
「はい、存じております」
「では、参りましょうか」
感情のない目で成貴を一瞥すると、章桂は一切の音を立てずに歩き始めた。闇夜を歩くのにも随分と慣れた。暗いだけで、恐れることは何もない。夜風が、さわさわと鳴く木々が、荒み切った孤独な心に寄り添って、乾いた肌を撫でてくれる。
 指定された小屋に入ると、包みが無造作に置かれていた。これを運んでくる者と接触することは決してない。彼等の役目は包みを運んでくる、ただそれだけだ。後のことは、その役目を担う者に任せればいい。興味もないし、知りたくもない。そういった思いが包みからひしひしと感じ取られた。つくづく損な役回りだ。よりによって、なぜ自分なのか。この世のすべてを呪いたくなる。
 章桂は、もう何も感じないのだろうか。もう感じる心すら、無くしたというのか。無表情のまま包みをつかみ小屋から出ていく章桂を見ていると、己の行く末を見ているようで吐き気がした。ほとんど空っぽの胃から上がってくる酸を飲み下し、もう一つの包みをつかんだ。
 衣類を脱ぎ、黒い着物に着替えてから霊水を頭から浴びせた。全ての工程は順番通りに行わなくてはならず、ひとつひとつを確認して覚えるのに随分とかかってしまった。物覚えが悪い方ではなかったが、重く沈んだ心と、無意識に拒絶しようとする頭では無理もない。相変わらず足早に進む章桂の背中を小走りで追いかけながら、成貴はぶるぶるっと頭を振った。
 半刻が過ぎた頃、二人は洞穴の前にいた。満月の強い明りが辺りを煌々と照らしている。いくら満月とは言え、明るすぎやしないか。胸騒ぎを覚えて視線を動かすと、章桂の顔も気味が悪いほど蒼白い。二人は重い足取りで中へ入って行った。
 最下層の空間まで降りて来ると、注意深く戸口まで歩を進めた。上から漏れ入る光のおかげで細部までよく見える。包みを置き、数歩下がると、二人は膝をついて身を屈めた。静まり返った洞穴の中は湿った空気が充満し、生臭い匂いが鼻をつく。
 少しの間が過ぎた。しかし、戸の向こうは静まり返っている。ずるずると足を引きずる音が近づき、軋む音を立てながら戸が開けられるのを今か今かと待ったが、何も起こらぬまま時が過ぎてゆく。
 顔を少し上げて、隣で身を屈めている章桂を見た。やはり、何かがおかしいと感じながらも動けずにいる章桂の左目がゆっくりと成貴へ向けられた。少しの間、二人は胸の内を探り合うように視線を交わしていたが、やがて心を決めたように章桂が立ち上がった。成貴はじっと章桂の動きを見守った。恐る恐る近づいて耳をそばだてるが、静寂は深まるばかり。少し迷った後、章桂は戸に耳を当てて中の様子を探った。
(章桂さま、そんなに近づいては危険です!)
そう叫びそうになるのを辛うじて堪えた成貴は、章桂を連れ戻そうと立ち上がった。章桂は成貴に向かって首を振ると、近づかぬよう手で制してから戸を叩いた。成貴は息を呑んだ。ぴんと張り詰めた空気が揺れる。
―どんどん。
更に強く叩いた。が、反応はない。
(やむを得ない。覚悟を決めろ)
己を奮起させるために拳を握りしめて歯を食いしばると、章桂は意を決し、戸を強く押した。
「章桂さま!」
言葉を発してはならないという決まりをすっかり忘れてしまった成貴は章桂へ詰め寄り、「何をなさっているのですか!」と、必死の形相で問い詰めた。
「確認せねばならんのだ!」
成貴以上に切羽詰まった声で章桂は叫んだ。
「反応がなければ、生死を確認せねばならない。これは我々の任務だ!」
成貴は雷に打たれたかのように体を痙攣させた。生死を確認するだと?それはつまり、中へ入って確認しろということか?冗談ではない!
「そのようなこと、私にはできません!」
「できる、できないの話ではない!やらねばならんのだ!」
そう言い放つと、章桂は押してもびくともしない戸に拳を叩きつけた。
「おやめください!」
「どうしてもできぬと言うのなら、ここで待っていなさい!」
幾度も拳を打ち付けていると小さなひびが入り、やがて戸は破られた。ひとりで行かせるわけにはいかない。成貴は大きく息を吸い込んだ。
 頭上から差し込む月光の中で二人が目にしたのは、思いのほか広い空間であった。いつ襲われるか分からない緊迫感と闘いながら必死に目を動かし、そのモノの姿を探した。奥の方にぼろきれらしきものがある。どろだらけの器、原型をとどめていない桶、積まれた石。それら全てが妖魔の抜け殻に見えた。
「章桂さま、どこにもおりません」
乱れた息遣いで成貴が言った。
「ああ、どこにもいない。なんということだ。これは、大変なことになった」
そう呟く章桂の顔は幽霊のようだ。
「章桂さま、どういたしましょう」
「直ちに報告せねばならぬ!急ぐのだ!ぐずぐずしている暇はない!」
あのモノが姿を消した。あの卑しいモノが、世界に放たれたというのか?早く、一刻も早く見つけ出し、連れ戻さなくては!
 鞭に打たれた馬のように二人は地上を目指し、真っ暗な空洞を一心不乱に駆け上がった。
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