序章 囚われたモノ

文字数 3,575文字

 元安(げんあん)九年、厳冬から木の芽時へ季節が移り変わるころ、二人の男が松明を手に闇夜を歩いていた。わずかな音もたてぬよう注意を払い、勘付かれぬよう袖で灯を覆っている。この日は朔月で、辺りはひときわ深い闇に包まれていた。黒い着物を纏い、そろりそろりと歩く者には不相応な朱色の足袋が、袖口から漏れる明かりに揺れている。
 前をゆく男は三十代半ばぐらいか・・・。面長の顔は強張り、口を一文字に閉じている。後ろの男は年若く、二十歳になるかどうかといった顔貌だ。先程から足元を警戒して下ばかり見ている。
章桂(しょうけい)さま」
若い男が囁いた。
「しっ、私語は慎みなさい」
「申し訳ございません」
消え入りそうな声が一瞬の内に闇に飲み込まれた。歩く速度を落としてもらいたかったが、用件を聞く前に叱咤されては黙るほかない。
「速度を上げますよ」
章桂と呼ばれた男は容赦なく言った。
「もうすぐです。それまでは、決して歩を緩めてはなりません」
 乾いた土埃が風の姿を鮮明に映しだした。男は咳き込みそうになるのを堪え、目を細めた。鬱蒼と茂った木々の中では視力は当てにならない。足の感覚を頼りに進んでいると、不安ばかりが増長する。
 先を行く男にとっては慣れた道なのかもしれない。だが若者にとっては、二度目の任務であった。しかも、初めて来たときのことは、ほとんど記憶にない。緊張と恐怖で震えていた感覚だけがありありと残っている。両手に大きな包みを抱え、視界も足場も悪い茂みの中を音をたてずに歩けなど、正気の沙汰ではない。
(早く終われ、そして何事も起きるな)
今、脳裏にあるのはそれだけだ。男の心は重かった。もうすでに、蝕まれている。この任務を担うことを命じられたそのときから、この心は蝕まれている。
成貴(なるき)殿」
突如、名を呼ばれた男は、ついはずみで「はっ、なんでしょうか」と甲高い声で答えた。
「静かに!」
「も、申し訳ございません」
あからさまにため息を吐くと、「これが二度目の務めですか」と、章桂は分かり切ったことを訪ねた。
「左様でございます」
「前回は、その、眠ることはできましたか」
成貴は困惑した。あれほど私語は慎むようにと言っていた男が急に饒舌になった理由が分からない。成貴はちらりと章桂の表情を盗み見た。
「いえ、ほとんど眠れませんでした。その、なんと言いますか、やはり身体が強張ってしまいまして」
「そうですか。無理もない。私もそうでした」
「今は眠れるのですか?その、任務の後でも・・・」
「もう、深く眠るというのがどんなものであったか、忘れてしまいました。とうの昔にね」
「・・それはつまり、慣れない、ということでしょうか」
「慣れることなどありません。このような宿命に生まれ落ちたことに、慣れることなど」
宿命という言葉を聞いた成貴の背筋に一筋の汗がつたって落ちた。
 
 任務を任されるのは、三つの条件を満たす者とされる。
一つ、銀髪であること。二つ、朔月夜に生まれたこと。三つ、右足に先天の痣があること。
 これが古からの掟である。章桂が「宿命」という言葉を使うのも無理はない。それらの条件すべてを満たして生まれてきたのなら、この任務を全うするがために生を受けたとしか思えない。これが人生なのか、この任務を三日ごとに繰り返し行うこと、そのためだけに存在する者の人生を果たして、人生と呼べるのか。
 章桂の目は窪み、乾いた肌は土色にくすんでいた。美しいとされる銀髪にも潤いはなく、表情には生気というものが一切ない。宿命に抗う気など毛頭ない。そんな気概は、とうの昔に捨ててしまった。
「慣れることはない。しかし、この宿命に生まれたからこそ出来ることだ。私がこの任務を全うすることで平安が成される。誰に認められなくとも、人知れず死んでいこうとも、この平安は私のような影の存在があってこそ成されるのだ」
何かに取り憑かれたように、その口調は様変わりした。言葉を発することで心を静め、目に見えぬ何かを祓おうとしているかのようだった。
 暗雲が立ち込めて、漆黒の闇がさらに濃くなった。近くまで来ている。そう思うと足が鉛のように重くなった。ねっとりと汗が纏わりつく。辺りを覆い尽くす湿気が魔物の侵入を阻むように濃くなり、成貴は言いようのない不気味さを覚えた。
 二人は結界が貼られている境界線に辿り着いた。三度、「斎戒の呪文」を唱えてから霊水で体を清める。章桂は残りの霊水を草むらに隠し、「参りましょう」と震える声で言った。
 成貴の手足は血が消え失せたかのように冷え切っていた。青い顔で深く息を吸い込むと、章桂は覚悟を決めて結界の中へ入っていった。ここからは言葉の一切が禁じられている。一度大きく身震いをしてから、成貴も後に続いた。
 心のなかで「守護の呪文」を唱えながら進んで行くと、急に足が重くなった。草がにょろにょろと伸びて、肢体に絡みついてくる。
「ひっ」
思わず悲鳴が漏れた。足元を確認すると、黒々とした雑草が風に揺れている。両目を見開き先へ先へと急ぐ章桂に離されまいと、成貴は必死に足を前へ動かした。
 
 どこからともなく突風が吹いたとき、すでに章桂は洞穴の前にいた。追いついて来た成貴を横目で一瞥し、懐から三つの石を取り出すと地面に置いた。成貴も慌てて石を取り出し、目の前に並べた。呪文を三度唱えてから指先を切り、血を石に塗った。これは「移魂の儀」と言って、魂を石に移すために行われる。すべての石に血を塗り終えると、体の重心が消えたような感覚に包まれた。体が軽い。これで楽に前へ進める。不思議な開放感を抱きながら、成貴はそう思った。
 一通りの儀式を終えると、二人は洞穴の中へ入って行った。途端に冷気が肌を刺し、視界は閉ざされた。章桂が裾で覆い隠していた松明を高く掲げた。
 平坦だった足場が次第に不安定になり、洞穴は地底の奥深くへと二人を誘った。人ひとり通るのも困難なほど狭い空間を、二人は眉間に深い皺を刻みながら下りて行った。
岩壁を伝いながらようやく下層部へ辿り着くと、成貴は安堵のため息を漏らした。顔を上げると、前方にある僅かな隙間からうっすらと月明りが差し込んでいる。
(月などなかったのに)
そう思うと、ありがたいはずの月光は途端に不気味なものに様変わりした。
ーまだ間に合う、今からでも引き返せ。
何者かが耳元で囁いた。
 二人は両壁の間に取り付けられた質素な板の前で歩を止めた。板には開閉できる小さな戸口が取り付けられているが、こちら側から開けることはない。成貴は戸口に貼ってある呪符を見た。
(大丈夫だ。札の力が守ってくださる)
そう自分に言い聞かせた。
 二人は包みを戸口に置くと数歩下がり、膝をついた。身を小さく屈めて、じっと耐える。しばらくすると、板の向こうで何かが動く音がした。二人は体を強張らせた。両腕で頭を抱えながら固く目を瞑った。決して目を開けてはならない。決して見てはならない。
 足音がじりじりと近づいてきた。こつんと音がし、ぎしぎしと軋みながら、戸はゆっくりと開けられた。成貴は痛みが生じるほど口と目を固く閉じた。息をするのも恐ろしかった。これは邪気だ。吸い込むな。やつはそこにいる。すぐそこにいるのだ。
 そのモノは包みを掴み、戸の内へずるずると引きずった。邪悪な視線が自分に向けられているように感じ、成貴の体は震えだした。早く戸を閉めてくれ、そう願った。
 ようやく、軋み音をたてながら戸は閉められた。口を開けて息を吸い、すぐさま吐き出した。汗が噴き出す。戸が閉められるまでの時が永遠のように感じられた。二人は姿勢を変えぬまま後ろへ後ろへと退き、十分な距離を取ると、ようやく立ち上がった。戸の方へは目もくれずに踵を返すと、壁を伝いながら地上へ這い出た。早く帰りたい、その一心だった。
 洞穴を出ると、辺りは一層の闇に包まれていた。月の光はどこにもなかった。成貴は意識が朦朧としていたが、なんとか力を振り絞り、急いで洞穴から離れた。
 結界の外へ出ると、着物を脱ぎ捨てて火をつけた。隠しておいた霊水を口に含み、血を塗った石に吹きかける。これを三度繰り返した。「帰魂の儀」を終えると、途端に体が重くなった。残りの霊水を全身にかけると、
「これで、恙なく任務は終わりました。ご苦労様でした」
と、覇気のない声で章桂が言った。成貴にかけた労いの言葉というより、自身に向けて言っているかのようであった。
「ご苦労様でございました」
未だに意識が朦朧としている。
「帰って、心身を休めてください。守護の呪文を唱えるのを忘れぬように」
そう言い残すと、章桂は憔悴しきった様子で去って行った。その背中は一回りも小さく、十も歳をとったように見えた。
 
 風が北から吹いている。この風が、身にこびり付いた邪気を完全に祓い去ってってくれることを、成貴は切に願った。
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