三、狼狽するもの、馳せるもの

文字数 1,867文字

 差し込むやわらかい光を感じながら黎明は目を覚ました。先ほどまで見ていた夢は記憶の彼方へ消えて、重たげに持ち上げた瞼の隙間から天井の模様がおぼろげに見える。何度か瞬きをしてから眉間を指先で軽く揉んだ。昨夜は横になるとすぐに深い眠りについたらしい。布団に入ってからの記憶がないのはいつぶりか。
 屈伸してから布団を出て、目を細めながら庭園を眺めた。少し早めに咲いた芍薬の花が陽光を浴びて、蝶がふわふわと飛んでいる。こんな時刻まで寝ていたのはいつぶりだろう。考えてみたが、思い出せなかった。
(巴慧の縁談がまとまったからかな)
心の中で呟きながら障子を開けると、そよ風が優しく髪を揺らす。
 寝間着を脱ぎ、穏やかな気分で袖に腕を通していると、
「旦那さま、お食事はいかがいたしましょうか」
と、女中が襖の向こうから控えめに尋ねた。
「あぁ、用意を頼む」
しばらくすると、二人の女中が配膳をしにやって来た。
「すまないね、珍しく寝過ごしてしまった」
作り直してくれたであろう温かい料理を見て、申し訳なさそうに詫びると、
「いいえ、ぐっすり眠っていらっしゃるご様子でしたので、お声がけは致しませんでした」
と、饅頭のような顔を更に丸くさせながら、年配の女中が朗らかに言った。
「気が緩んでいる証拠だな。引き締めなければ」
「たまにはようございましょう。旦那様はご自身にお厳しい方ですから」
それもそうだな。たまにはこういう日も良い。今日は久しぶりに巴慧を誘って庭を散歩でもしようか。荒人も呼ぼう。三人一緒に花を愛でながら歩けば、さぞ楽しいに違いない。
 そんなことを思いながら箸を動かしていると、ばたばたと近いてくる慌ただしい足音が耳に飛び込んできた。
「何事だ。騒々しい」
文句を言いながら箸を置く。ゆったりと食事を楽しんでいたのに、台無しにする気か。
「屋敷内では極力静かに」
那祁家に仕える者が真っ先に言われることである。声を荒げて話す者、大きな足音を立てる者が何より嫌いなのだ。そんな黎明の性格を知り尽くしているはずだが、足音の主は床を壊しかねない勢いで近づいてくる。そして、あっという間に入り口までやって来た。
「失礼いたします!当主様!」
息を切らしながら声を張り上げて話すのは、侍者の湊である。
「何事だ。騒々しい」
気分を害した黎明は厳しい声色で問うた。
「一大事でございます!失礼いたします!」
湊は素早く襖を横へ滑らせて、膝をついたまま無駄のない動きで室内へ入ってきた。
「一刻も早くご報告せねばなりませぬゆえ、ご無礼をお許しください」
その顔は記憶にないほど青ざめ、唇は震えている。
「良い。話せ」
ただ事ならぬ事態と見た。黎明はじっと侍者の言葉を待った。
「先ほど、ひとりの男がやって来たのですが、なんせ謁見の申請もせずにいきなり門を叩くので、門番の者が追い払おうとしたのですが、『これは大事なことなのです!ご当主様へ通して頂けるまでは帰りませぬ!』と、梃子でも動かぬといった様子でございまして、『仕方ない、とりあえず中へ通して話だけでも聞こう』と、通すことにしたわけでございますが」
よほど気が動転しているようだ。湊の説明はしどろもどろに舌がもつれて、らちが明かない。しびれを切らした黎明に「要点を先に言いなさい」と言われて、湊はよりいっそう慌てふためいた。
「申し訳ございません。あまりの事態に、気が動転してしまいまして」
心を落ち着かせるためにひとつ深呼吸をすると、
「あのモノが、いなくなったそうです」
と、声を潜めて言った。
「あのモノとは、いったいなんのことだ」
「当主様、あのモノです。こう言えばお分かりかと」
険しい表情が驚愕の形相へと一変した。
「まさか、あれのことか」
「左様でございます」
「待て、何を言っているか分からん」
湊はとどめを刺すように、ゆっくりと繰り返した。
「あのモノが、いなくなったのです」
充血した眼がカッと見開かれた。
「いなくなったとは、いったいどういうことだ!」
「分かりません。その者が言うには、昨夜、()の地へ赴いたところ、あのモノがいなくなっていたと。探したが、どこにもいないと」
端正な顔が血を浴びたように赤く染まり、刺すように湊を見た。
「そんなわけがあるか!」
空気がびりびりと揺れた。かつて一度も聞いたことのない声色に、湊の背筋は凍り付いた。
「探せ!今すぐ探して捕らえるのだ!早くしろ!」
「はい!」
這うようにして廊下へ出ると、湊は持ちうる限りの力を振り絞り、書記官の元へ激走した。そして、湊から伝令を受けた書記官は直ちに巳玄軍の総司令官の元へ使者を遣わした。
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