一、月の夜の少年(2)

文字数 2,265文字

 那祁(なぎ)家から首都の比永(ひえい)までは十里ほどの距離がある。馬で行けば一刻半から二刻ほどで着けるが、徒歩となると五刻はかかるだろう。
 舗装された本道を行けば身体への負担は軽いが、巴慧はそうせずに険しい山道を歩いて来た。山と言っても、さほど高い山ではない。幼いころから山で遊んでいたし、なんとかなるだろうと思っていたが、甘かった。山道と言えば聞こえは良いが、実際は道なき道をかき分けて進む過酷なものだった。頭上には月がいると言うのに、その光は樹々に阻まれている。すでに何度も転び、着物は泥にまみれている。
 そして、山には獣がいる。いつ襲って来るか分からない影に怯えながら、どうにかしてここまでやって来た。やっぱり、本道を行くべきだった。わざわざ獣道を選ばなくても良かったのにと考えて、いやいやと首を横に振った。本道は夜間であっても人の往来がある。女がひとりで歩いていればすぐに見つかり、運が良ければ憲兵に「保護」され、運が悪ければ身ぐるみを剥がされるだろう。やはり、この山を越えるしかないのだ。
 巴慧はもう一度、月の位置を確認した。夜が深まり、山は怖いほどの静けさに包まれている。今頃、那祁家は深い眠りの中にいる。だが分からない。すでに騒ぎになっているかもしれない。どちらにしろ、時間の問題だ。気づかれる前に、父が動き出す前に、できるだけ遠くへ逃げなければ・・・。そう思えば思うほど嫌な汗が吹き出し、じわじわと臀部を冷やした。
 巴慧は着物の裾を破いて紐状にしてから、下駄を足に括りつけた。これで少しは歩きやすくなる。ずきずきと痛む足を引きずりながら、先を急いだ。
 急に視界が明るくなったので上を見てみると、木の葉の隙間からまん丸い月が顔を覗かせている。なんだか饅頭みたいだ。そう思った途端にお腹が鳴った。そういえば、あの腹立たしい朝食から何も食べていないではないか。
「あー、もう!ほんっとにバカ!」
再び自分を罵ってから、大きなため息をついた。心配する与佐子に、お腹がいっぱいだからいらないと言ったのは自分なのだ。
(少しでも食べておけばよかったな。それか握り飯にでもしておけば、持ってこられたのに)
すべては、後の祭りである。そのうえ、脇目も振らずに歩いてきたせいで、大量の汗をかいている。このままでは干からびてしまいそうだ。
(よし、何か飲めるものを探そう)
そう決意し、ふたたび月を見上げた。
 しばらく歩いていくと、どこからともなくさらさらという音が聞こえてきた。ハッとして、耳を澄ませる。間違いない、川のせせらぎだ。そう思った瞬間、強烈な飢餓感がこみ上げてきた。早く、早く!そう思うと、体の痛みはどこかへ消えて、足が勝手に動き出した。
 必死に歩を進めながら方角を探ると、右斜め下の方から水の流れる音がする。草木をかき分けて音の方角へ登っていくと、急だった勾配がやがて緩やかな斜面へと変化した。進む度に音が強くなる。一番高いところへ辿り着くと、一気に視界が開けた。
 巴慧は瞬きもせずに、目の前の光景を眺めた。そして、転がり落ちるようにして斜面を駆け降りた。もうその目には、光をきらきらと反射させながら流れる川しか映っていなかった。
 走りながら包みを放り出し、倒れこむようにして川面に顔を近づけた。そして、無我夢中で水を飲んだ。
 渇きが癒えると、体は酸素を求めて深呼吸を繰り返した。はぁはぁと肩を上下させながら上体を起こし、下駄を脱いだ。そして、汚れた足を丁寧に洗った。傷がひりひりと痛むが、すぅっと熱が引いていく感覚が心地いい。だが、上着の裾で足を拭っていると、堰を切ったように涙が溢れてきた。こんな羽織一枚で、どうするつもりだったんだろう。まだ夜は肌寒い時期なのに、こんな薄着で・・・。幼い頃から街へ通い、様々な知識をつけてきたという自負があった。私は世間知らずの娘ではないと・・・。だが、実のところは何もできない箱入り娘ではないか。与佐子がいなければ、ろくに荷造りもできない。
(情けない、本当に情けない)
手拭いや代えの草履があれば、もっと暖かい上着があれば・・・。そう思っても、もう遅い。計画性に乏しく、思い立ったら考えなしに行動してしまうところは三歳のころから変わっていない。どろどろの上着を眺めながら、強い自己嫌悪に陥った。
 ふぅっと息を吐いて夜空を見上げる。相変わらず、まん丸の月がそこにあった。
(泣いててもしょうがないわ。家を出るって決めたんだから、強くならなくちゃ)
幸い、夜が深まっても気温はさほど下がっていない。
(大丈夫、なんとかなる)
そう思い直し、手の甲で涙を拭った。立ち直りが早いのも三歳のころから変わっていない。
 ふたたび下駄を足にくくりつけたそのとき、川の向こう側でガサガサと何かが動く音がした。巴慧はハッと息を呑み、身を屈めた。
・・・獣か、人か。
身構えたまま、目を凝らした。川の背後にある黒々とした山が、じっと身を潜めている。突風が木々を揺らし、葉と葉がぶつかる音がした。
(なんだ、風の音か)
胸を撫で下ろしたが、その直後にじゃりじゃりと地面が擦れる音がした。やはり、なにかいる。巴慧は息を潜めた。
 その音は少しずつ、だが確実に近づいてきた。時がゆっくりと流れて、かさかさと木葉がざわめいた。
 次の瞬間、闇の彼方から、それは姿を現した。とっさに巴慧は頭を手で覆った。目をぎゅっと瞑り、見つからないことを願った。心臓がどくどくと波打ち、喉が締め付けられる。
 恐る恐る目を開けると、そこに立っていたのは、ひとりの少年だった。
 
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