二、老街の住人

文字数 2,949文字

 日の出とともに街では人々が活動を開始した。比永の朝は早い。待っていましたとばかりに、まだ薄暗いうちから新鮮な食材が次々と市場へ運び込まれる。食堂や民家から湯気が立ち込めて、蒸した饅頭や炊きたての米の匂いが充満する。そして、次々に出立する飛脚と入れ代わるようにして、来訪者が続々と到着する。旅人、商人、役人、高官、遠方から招かれた来賓客・・・。多種多様な人種が集結する街なのだ。
 人目を忍んで街へ入った巴慧は少しばかり驚いていた。まだ早朝だというのに、異様なほど賑わっている。もともと活気に満ちた街ではあるが、今日はどうも様子が違う。どこもかしかも人でごった返しているのだ。
(お祭りでもあるのかしら)
右へ左へと行き交う人々は皆、彩り豊かな衣装を身に着けている。他国のものらしき煌びやかな衣装をまとっている者もいれば、古い時代の楽器を手に歩いている者もいる。そして街の住民も、いつもよりめかしこんでいる。
 裾の破けた泥まみれの着物を着ている娘と、ぼろきれ一枚をまとった少年。どう見ても怪しい二人がこそこそと歩いていれば通報されるのではと思っていたが、どうやら取り越し苦労だったようだ。チンドン屋にしか見えない恰好をした一団が楽器を演奏しながら、千年通りを練り歩いている。人々はみな、そちらに目を奪われていた。
「もうすぐ着くから、がんばって」
 大通りから少し離れた裏筋を歩く巴慧と少年は、「老街(ろうがい)」と呼ばれる地区を目指していた。豊かな比永の街に存在する唯一の貧民街であり、一般市民が立ち入ることはほとんどない。風が吹けば崩れ落ちそうな掘っ立て小屋が乱雑に立ち並び、その隙間をかき分けるようにして存在している小道には日の光がほとんど当たらない。あちこちに捨てられた瓦礫や使い古された布団が散らばり、異臭を放っている。そして、残飯目当てに集まってきた野良犬が牽制し合いながら徘徊し、その隙に烏が肉のはし切れを啄む様子を野良猫が塀の上からじっと見つめている。
 そんな、誰もが忌み嫌う区域に入ると、これでまずは一安心といった顔で巴慧は一息ついた。ここではぼろきれを纏っていようが、泥にまみれていようが、気にする者はいない。豪華な装いで歩いていればかえって目立つだろうが、今の自分たちにはここがお似合いだ。それに、老街の住人は貧しいが、人の心を失ったわけではない。豪華な暮らしをしている者はいないが、いきなり襲ってきたり、金品を奪ったりするような者もまた、いないのだ。
「こっち、足元に気をつけて」
巴慧は少年の手を引きながら、細い路地をさらに奥深くへと入っていった。足元に落ちているあらゆるものを避けながら進んでいくと、戸口に板が張り付けられている古い小屋が見えてきた。
 辺りを見回し、人がいないのを確認すると、巴慧はこつこつとその板を叩いた。しばらくすると、小屋の裏側からじゃりじゃりという足音と共に、ひとりの老婆が姿を見せた。
「ミトさん!」
巴慧が声をかけると、老婆は丸まった腰を少し伸ばしてから目線を動かし、驚いた表情を見せた。
「巴慧ちゃんじゃないか。こんな時間に、いったいどうしたんだい?」
「ミトさん、突然ごめんなさい。ちょっと、助けてほしいの」
ミトはまじまじと巴慧の顔を見た。次に後ろにいる少年に目をやると、
「なんて恰好してんだい?夜中に川で泥遊びでもしたのかい?相変わらずのおてんばさんだね」
と目を丸くして言った。ミトの言葉に、「まあ、そんなとこ」と、巴慧は人差し指で頬をかきながら苦笑した。
「とりあえず入りな。そっちの子もおいで」
「ありがとう!」
嬉々として小屋へ入る巴慧の後ろで、少年は忙しなく視線を動かしていた。中には小さな居間と、鍋や調理器具が乱雑に置かれた台所、そして奥に厠らしきものがある。
「ミトさん、詳しく説明をする前にひとつお願いがあるんです。この子を医者に見せたいの。八朔(はっさく)先生を呼んでもらえますか?」
巴慧はミトの手を握り、懇願した。ミトは隅の方で体を硬くしている少年をちらりと見やると、
「医者も良いけど、何か食べさせるのが先だよ。いったいどうしたんだい、あの子は。骨と皮じゃないか」
と、顔をしかめて言った。
「名はなんて言うんだい?」
老婆に話しかけられた少年はびくっと体を強張らせると、身を屈めて顔を隠してしまった。
「巴慧ちゃんの友達かい?ずいぶん変わった子だね」
呆れ顔で近寄ると、ミトは少年の衣をつまんだ。
「しかもなんだい、この布は。巻いてるだけじゃないか。いったいどんなところからやって来たんだい?」
バシッと手を振り払うと、少年は獣のような唸り声をあげた。
「その様子じゃ、腹が減ってんだろ?うまいもんを作ってやるから待ってな」
威嚇したまま、少年はさらに隅の方へ移動していった。
「私も手伝います!」
袖まくりをして言うと、「何を言ってんだい、そんなぼろぼろの体で。いいから座って、お茶でも飲んでな」と言われてしまった。
 ミトは曲がった腰を伸ばすと、てきぱきと食事の支度を始めた。野菜の皮を剥きながら魚をさばき、粉と水を練って饅頭の生地を作り、次から次へと餡を包んでいった。巴慧はただじっと、その様子を見守った。
「もうすぐできるからね」
熱い視線を感じたらしい。ミトは顔をくしゃくしゃにして笑った。
「はい、できたよ」
色褪せた卓の上に皿が並べられた。蒸したての饅頭、野菜炒め、魚をからっと揚げたもの、もち米と肉を炊いたもの、それだけでも十分に豪華だったが、ミトは貴重な干し肉まで振る舞ってくれた。
「さぁ、おあがり」
「いただきます!」
巴慧は箸をつかみ、ふかふかの饅頭を頬張った。少年はミトと巴慧の顔を交互に見ていたが、やがて箸を持つと、ぶすっと饅頭に突き刺した。横目で見ていると、ぎこちなく箸を持ち上げて、くんくんと匂いを嗅いでいる。そして丸ごと口の中へ押し込んだ。思わず吹き出しそうになるのを巴慧は必死に堪えた。もぐもぐと噛む内に蒼白かった少年の頬が赤く染まり、虚ろだった目が大きく見開かれた。ごっくんと飲み込むと、その小さな顔はぱぁっと華やいだ。そして、がつがつと音を立てながら貪り始めた。
「まるで何年も食べてなかったかのようだね。しかもなんだい?その箸の持ち方は。教えてもらわなかったのかい」
ミトが大笑いした。それもそのはず。少年は箸を握りしめて、ぶすぶすと食べ物に突き刺している。礼儀がなっていないどころの話ではない。箸で刺せないものは両手で鷲掴みにして口の中へ押し込んでいる。
「あははは!」
巴慧も声をたてて笑った。張り詰めていた緊張の糸が一気に解けたように笑い続けた。
「おまえ、名はなんていうんだい?」
ミトが再び尋ねた。ほんの一瞬だけ少年は食べ物から目線を外したが、またすぐに皿へ戻した。
「やれやれ、変わった子だね。いったいどこで拾ってきたのさ」
「それは・・・」
巴慧は口ごもった。
「まぁいいさ。詮索するのは趣味じゃないよ。名前も教えたくないっていうんなら、それでいいさ。なくたって困りゃしない。困ったら、そんとき考えりゃいい」
ミトは出会った頃からこういう人だった。やはり、ここに来て正解だった。
 食事を終えた二人のもとへ一人の医者がやってきたのは、仮眠を取り始めてしばらく経ったころだった。
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