二、老街の住人(4)

文字数 2,484文字

 早めに切り上げて帰ると、カイリと少年が茶を飲みながら寛いでいた。巴慧は目を見張った。少年の髪はきれいに整えられて、質素ではあるが清潔な着物を着ている。
「俺が切ってやったんだ。似合うだろ?」
得意げにカイリが鼻をならした。確かに、よく似合っている。一瞬、誰だか分からなかった。柳のように顔を覆い隠していた髪が短くなったことで、はっきりと顔が見える。
「こいつ、すっげぇ汚れてたんだぜ!洗っても洗っても落ちなくて大変だったんだぞ。店番のじいさんにまで手伝ってもらってさ。もうくたくただよ!」
えらい目に合ったと、カイリは仰向けに寝そべった。
「しかもこいつ、あの包帯のまま風呂に入ったんだぜ!」
そう言われてみると、左腕の包帯は巻かれたままだ。
「それ、ちっとも取れねぇの。何回も湯をかけて、洗って、取ろうとしたんだけど、てんでだめ。汚ぇから取れよって言っても、ちっとも言うこと聞かなくってさ」
「それ、巻いてて大丈夫なの?痒かったり、痛かったりしない?」
そう尋ねると、少年はぷるぷると首を横に振った。体が温まったからか、顔色もずいぶんと良くなったようだ。横に長い猫のような大きな一重の目がじっと向けられているのを感じると、なんだかそわそわと落ち着かない気分になった。
 その日の夕食は忘れられないものになった。止めどなくしゃべるカイリと、「口ばかり動かしてないで箸も動かしな」と笑いながら叱るミト、獣のように食べ物を鷲掴みにし、食卓を散らかしまくる少年。こんなに笑ったのはいつぶりだろうか。その瞬間だけは何もかも忘れて、心の底から楽しむことができた。
 食後の茶を飲み終えると、ミトが布団の用意をしてくれた。
「前はお客さん用のがあったんだけどね。古くなりすぎちゃって、ついこないだ捨てちまったのさ。だから、ふたつしかない。おまえさんたちはここで寝な。あたしらは隣の家で寝かせてもらうから。なぁに、気にするこたぁないよ。隣のばあさんは家族みたいなもんだからさ」
すると、すっかり寛いだ様子で腹をさすっていたカイリが、
「えぇ!?まさか、こいつを巴慧ちゃんと一緒に寝させる気か?正気かよ?こんな得体の知れねぇ奴、だめだめ、絶対にだめ!」
と言って飛び起きた。
「何をばかなこと言ってんだい。何も起こりゃしないよ。ほら、おまえも来るんだよ」
腕を掴まれたカイリは必死に抵抗した。
「やだよ!俺もここで寝る!」
「ふたりとも疲れてんだから、ゆっくり休ませてやんなきゃだめだろ?まったく、どうでもいいとこでばっかりませてんだから」
ぶつくさと文句を垂れながら、ミトは嫌がるカイリの腕を引っ張って行った。巴慧はくすくすと笑いながら錆びた千錠を掛けた。どこまで効力があるかは不明だが、掛けるとなんとなく安心した。
 布団に入ると、ふたりは何も言わずに天井を見つめた。
「ねぇ、あなたはどこから来たの?」
囁いた声が鳥のさえずりのように響いた。少年からは呼吸音すら聞こえてこない。
「そういえば、ちゃんと言ってなかったかもしれないわ。私の名前は巴慧。那祁巴慧です。ちょっと色々あって、家を飛び出してきちゃったんだけど、どういう巡り合わせか今夜はあなたとここで眠ることになりました。二日前までは想像もしてなかったけど、今こうやって暖かいお布団の中で眠れることが、とっても嬉しい」
ゆっくりと言葉を紡ぐ巴慧の表情はやわらかい。これからのことを思えば不安しかないが、今、この瞬間だけは、とても穏やかな気持ちだった。
「あなたは、家族はいるの?」
深く考えずに尋ねたが、すぐに父の顔が浮かび、心が痛んだ。さすがにもう、娘がいないことに気づいているはず。心配しているに違いない。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。何度も心の中で謝った。悲しませたいわけではなかった。けれど、このままでは結婚させられてしまう、結婚すれば籠の中の鳥になってしまう・・・。そう思うと、何かに突き動かされるように家を飛び出していた。賢い判断ではなかったと思う。繰り返し思いを伝えれば、父ならきっと、分かってくれた。明日、家へ帰れば、結婚の話を取り止めてくれるかもしれない。荒人だって、きっと分かってくれるはず・・・。 
 そこまで考えて、巴慧は首を横に振った。これまで、父が娘の意見を無視し、なにかを独断することは一度もなかった。そんな父が、断固として娘の訴えを退けたのだ。
(これは、私の一存でどうこうできる問題じゃないんだわ)
やはり、逃げるしかない。
「ごめんなさい、お父様」
口から洩れた言葉が昇っていき、闇にかき消された。
 静かな時が流れた。やがて少年はゆっくりと顔を横に向けると、巴慧の横顔を目でなぞった。
「名前は、なんていうの?」
巴慧も体を横に向けて、少年の目を見つめた。
「名前だけ、知りたいな。ほかは何も言わなくていいから」
本当は知りたいことだらけだった。どこから来たのか、どんな暮らしをしていたのか、なぜ夜中に山中を歩いていたのか、親はいるのか、なぜ、こんなにも痩せているのか・・・。けれど、ミトが何も聞かないでいてくれたことが嬉しかった。無理に言わないでいいよと言われたとき、嬉しくて涙が零れた。こういう優しさもあることを知った。
「・・・しん」
少年が口を動かした。少年が初めて声を出したことをすぐには理解できずに、巴慧はぼぉっと少年を眺めた。
「なんて?聞き取れなかった。もう一回言って?」
少年はふたたび口を開いた。
「いっ、しん」
初めて聞く声はかすれていて、声を出すことに慣れていないようだった。
「いっしん?それが、あなたの名前?」
少年は小さく頷いた。
「どんな字を書くの?」
そう問いかけると、少年は古い記憶を探すように目を閉じた。
「一つの、新しい・・・」
一つの、新しい、なにかは思い出せないようだった。
「一新」
一新、一新と、巴慧は声に出して繰り返した。
「すてきな名前」
そう言うと、一新はきょとんとした顔で首を傾げた。ふふふと笑うと、瞼が重くなり、徐々に意識が遠のいていった。
「おやすみなさい、一新」
そう囁くと、巴慧はすぅっと深い眠りの中へ落ちていった。

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