三、狼狽するもの、馳せるもの(2)

文字数 2,147文字

 武術の鍛錬に励む兵士を遠目に見ていた鳥次(ちょうじ)の元へ早馬がやって来たのは、半刻あまりが過ぎた頃であった。国府からいったい何の指令かと思いながら文を開封すると、「極秘任務にて、大至急、兵士の派遣を命ずる」とある。鳥次は即座に二人の兵士を呼んだ。
 すぐさま、訓練の指揮にあたっていた屈強な男が二人、鳥次の元へ参じた。ひとりは名を佐門(さもん)と言い、一目で軍人と分かる風格の持ち主である。長身で鍛え抜かれた肉体にも目を見張るが、特筆すべきはその精悍な顔つきだ。力強い輪郭と凛々しい眉、そしてすべてを見通すような目に宿る炎が、対峙する者を真っ向から見据える。
 もうひとりは名を(とおる)と言い、佐門よりはやや小柄だが、やはり筋骨隆々の武人である。美しく中性的な顔貌をしており、さほど威圧感はないが、その堂々たる佇まいはやはり、一流の風格を備えている。
 巳玄国(みげんこく)の軍隊には四つの特殊部隊がある。弓兵隊、槍兵隊、山岳戦に特化した山岳兵隊、そして剣術や体術の手練れで構成される武闘兵隊。この二人は、それぞれが武闘兵隊と弓兵隊の隊長であり、両人とも、その道の達人である。
「佐門と透、参上いたしました」
右膝をつき、左の拳を床につけて頭を下げる。この巳玄軍特有の敬礼を完璧に行ってから、二人は(おもて)を上げた。
「早速だが、任務だ」
鳥次は淡々と命じた。
「直ちに那祁(なぎ)家へ向かい、国司殿の指示に従え」
「失礼ながら、如何なる任務でしょうか」
明瞭な声で佐門が尋ねる。
「詳しくは知らぬ。行ってから詳しい話を聞け」
「承知いたしました」
「これは極秘任務だ」
「はっ」
「では、行け」
二人は一礼すると、俊敏な動きで武器を取り馬に跨った。那祁家の邸宅へは山をひとつ越えなければならないが、二人が駆ければ半刻足らずで着くだろう。
 部下を送り出す鳥次の心は落ち着き払っていた。この軍において、司令官である鳥次の言葉は絶対である。極秘任務と言えば他言無用のみならず、深く詮索することも禁ずるということを意味する。説明は必要ない。与えられた任務を完璧に遂行するのが巳玄兵である。鳥次が絶大な信頼を寄せる佐門と透は、一を言えば十を理解する切れ者だ。伝令を受けたとき、真っ先に鳥次の脳裏に浮かんだのはこの二人の顔だった。

 時は遡る。
 軍の総司令部へ早馬が向かっていた頃、那祁家では一人の男が客間へ通された。
「お初にお目にかかります」
覇気のない声でそう述べると、男は膝と手をつき深々と頭を下げた。
「面を上げなさい」
弱弱しく黎明を見上げる顔は頬がこけ、一切の感情を消し去られたかのような虚ろな目がゆらゆらと揺れている。
「まずは名を聞こう」
章桂(しょうけい)と申します」
「では章桂、詳しく話を聞かせてもらおうか」
国司の深く威厳のある声と、厳しく糾弾する眼差しを前にして、章桂は喉から胃にかけて鉛を飲み込んだかのような閉塞感を覚えた。
「はい。昨夜のことでございます」
たどたどしく事の顛末を語る章桂の言葉を、口を閉ざしたまま聞く黎明の表情は薄氷のように冷たい。部屋の片隅で二人を見守る(みなと)も、逃げ出したくなる衝動を必死に抑えていた。
「そのように忽然と、姿を消したのでございます」
ひと通り話し終えると、章桂はこう締めくくった。
「姿形あるものが、泡のように消えてなくなったと申すか」
静かな声色に肌が粟立つ。
「いえ、消えるはずはないのですが、どこにも姿がありませんでしたので、そのように申し上げました」
「外から何者かが侵入した形跡はなかったのか」
「あの場所へ入るには、道はひとつしかございません。戸も普段通りでしたし、特に奇妙な点はございませんでした」
では、壁をよじ登り、自ら外へ出たというのか。内側からあの岩を動かしたと。その可能性を吟味してから、ゆっくりと首を横に振った。
「脱出するのは不可能だ」
「その通りでございます。あの場所から外へ出るのは不可能です」
「しかし、実際にあのモノは姿を消した」
「はい、その通りでございます」
そう言って目を伏せる章桂の額に、艶のない銀色の髪がはらりと落ちた。
「湊」
唐突に名を呼ばれた侍者は飛び上がった。
「はい!」
「この方を書記官の元へ案内してくれるか」
「かしこまりました」
黎明は立ち上がると章桂の傍まで歩み寄り、美しい姿勢で片膝をついた。
「章桂殿、そなたにあの場所への案内を頼みたい。引き受けてくれるか」
章桂は震えた。なんと深みのある声だろうか。まるで妖術にかけられたかのように恍惚とした表情で、「もちろんでございます。何なりとお申し付けください」と答えると、章桂は額を畳にこすりつけた。
「では、迅速に頼む」
 二人が退室すると、黎明は一通の文を書き始めた。鼓動が耳に響き、筆を持つ手が震えている。
(大丈夫だ、軍へ遣いの者をやった。鳥次なら最も適した者を選び、任務に充ててくれる)
脳裏に四人の兵士の顔が映し出された。強者(つわもの)揃いと称される巳玄軍の中でも、精鋭中の精鋭である四人の隊長・・・。
(あの者たちなら、命に代えてもこの国を守ってくれるだろう。大丈夫だ。案ずることはない。大丈夫だ)
不安を打ち払うために同じ言葉を繰り返していると、霧に覆われていた思考が徐々にはっきりしてきた。
(じきに兵士が来る。大丈夫だ。必ずや探し出し、捕らえてみせる)
黎明は目を閉じ、深呼吸を繰り返した。

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