一、再会、そのあとに

文字数 14,433文字

 砂が舞っている。この季節に飛来する北方の砂が風と混ざり合い、さわさわと木の葉を揺らしているのを眺めながら、黎明(れいめい)はゆっくりと筆を置いた。
 近頃はひっきりなしに便りが届く。公的なものから私的なものまで、机の上には文が山のように積まれている。やれやれとため息をつく。ここから十里ほど離れた比永の街にある官府から、今朝も大量の文書が届けられた。そのひとつひとつに目を通し、必要に応じて署名する。ただでさえ多くの職務をこなしているのに、返事をかかなければならない便りが容赦なく増え続けていた。
 黎明は一通の文を手に取り、すでに幾度も目を通した文章を再び読み始めた。文の送り主は斎海啓史(さいかいけいし)、黎明の旧友である。
(相変わらず、元気な男だな)
黎明は笑みを漏らした。若かりし頃に、ともに学府で過ごした日々を思い出す。啓史は文武両道を体現したような男で、多くの学友から一目置かれていた。
「おい、ここを離れても、俺はずっとおまえを支えてやるからな!忘れるなよ!」
そう言って豪快に笑ったあの顔を、生涯忘れることはないだろう。
 黎明が色鮮やかな日々に思いを馳せていると、
「当主様、御客人がお見えです」
と、閉められた襖の向こうから、控えめな声で侍者の(みなと)が告げた。
「着いたか」
便りを受け取ってからずっと、この瞬間を待ちわびていた。浮き立つ心を抑えて、「上の間に通してくれ」と、黎明は深みのある声で答えた。
「承知いたしました」
心なしか、湊の声が耳に心地良い。
「では、参ろう」
黎明は優雅に立ち上がると、僅かばかりに着崩れた着物を直し、上の間へ向かった。
 膝をつき、丁寧に襖を開ける湊に礼を言ってから中へ入ると、若い男がひとり、正しい姿勢で着席している。
「黎明様、ご無沙汰しております」
荒人(あらと)か・・・。これは見違えたな」
深々と頭を下げる若者の顔を見た瞬間に懐かしさがこみ上げてきた。万感の思いで客人の前に座ると、黎明は相好を崩した。
「長旅で疲れただろう。よくぞ来てくれた」
「お心遣い、ありがとうございます。この度は手厚く迎え入れてくださり、心より感謝いたします」
「立派になったな。あの小さかった荒人が、まるで夢を見ているようだ」
「いいえ、まだまだ若輩者です。黎明様もお元気そうで、安心いたしました」
ほんのりと頬を赤らめる荒人の心もまた、浮き立っていた。正式な客人として迎えられことが、一人前として認められたようで嬉しい。はにかみながら視線を上げると、 
「時が経つのは早いものだな」
と言って、黎明は茶を一口飲んだ。なんと美しい所作だろうか。数年ぶりに見る黎明の洗練された身のこなしに、つい見入ってしまう。これは一朝一夕で身に付けられるものではない。幼い頃に厳しい躾を受けた者だけが習得できる一流の所作だ。
(父上も由緒ある家のはずなのに、この違いはなんだ?黎明様が君子なら、父上は冬眠明けの熊だな)
好き放題に伸びた髭で覆われた父の顔を思い浮かべ、荒人は笑いを噛みころした。
「親父どのは元気か?」
ハッと我に返り、荒人は背筋を伸ばした。
「はい。おかげさまで皆、元気にしております」
「堅苦しい言葉はやめてくれ。そなたは息子のようなものだ。昔のように接してくれると嬉しい」
そう言うと、黎明は目を細めた。
「私も黎明様を実の父のように慕っております。図々しいかとは存じますが」
遠慮がちに言うと、荒人は慌てて乾いた喉を茶で潤した。
黎明は改めて、目の前にいる青年の顔を見た。凛とした眼差しは父親の意志の強さを思い出させる。若かりし頃、ともに笑い勉学に勤しんだ時代がありありと蘇る。
「父に似て、良い顔だ。立派に成長したな」
再び褒めると、
「とんでもございません。まだまだ未熟で、お恥ずかしい限りです」
と言って視線を逸らし、荒人は真っ赤になって俯いた。似てはいるが、父親ほど無骨ではない。色白な肌は滑らかで、美男と言っても差し支えない器量だ。その辺りは母親譲りか。
「よく文をもらうが、読む度に笑ってしまう。相変わらず活発に動き回っているようだな」
「父上は一時もじっとしていられない気性ですので、まったく困ったものです」
「その気性を、そなたも受け継いでいるのかな?」
そう問うと、荒人は困ったように微笑んだ。
「私は動き回るよりも、書物を読んだり楽器を奏でたりする方が性に合っております。父ほど活動的にはなれません」
「そうだったな。幼いころから物静かで、聡明であった」
黎明は過去を愛しむように視線を僅かに上へ向けた。 
 荒人の父である斎海啓史が「(いち)(ぐん)」に郡司として赴任してから数年が経つ。ここ、巳玄の国には首都である比永(ひえい)の他に、「壱の群」「弐の群」「参の群」と三つの群があり、代々、斎海家が郡司を務めている。比永で生まれ育った荒人は遠く離れた地へ移り住むのをたいそう嫌がり、ここに残りたいと懇願したが、啓史は頑として許さなかった。
巴慧(ともえ)には会ったか?」
「いえ、まだです」
巴慧という名を聞いた途端に体の奥が熱くなった。
「少しはおしとやかになってくれれば良いのだが、相変わらず、ちっともじっとしていられない子だ。まったく誰に似たのか。まるで、そなたの父親のようだな」
黎明は困ったように微笑を浮かべた。一人娘の巴慧を自由気ままに育ててしまったという自覚はある。昨夜、明日は大切な来客があるから身支度を整えて部屋で待つようにと伝えたはずだが、いつものごとく忘れてしまったらしい。どうせ比永の街に出掛けては付き人の与佐子(よさこ)を困らせているのだろう。先ほど湊を迎えに行かせたが、部屋は空っぽであったと言う。
(客人が誰であるかを伝えていれば、飛んで来ただろうが)
まったく、困った娘だ。
「巴慧に会うのも比永を離れて以来か」
「ええ。美しく成長したでしょうね」
「相変わらずのじゃじゃ馬だよ。いったい誰に似たのやら」
そう言いながらも、さほど困ったようには見えない。幼いころから誰よりも巴慧を愛しんできた黎明のことだ。そのおてんばなところも可愛くて仕方がないのだろう。荒人は懐かしそうに幼馴染の愛くるしい表情を思い浮かべた。この地を離れてから、巴慧のことを忘れた日は一日もない。ふたたび会える日をどれほど待ち焦がれたことか。
「おそらく街へ行ったとは思うが、もしかしたら書斎にいるかもしれない。あとで行ってみると良い」
「懐かしいですね。では、後ほど行ってみます」
好奇心が旺盛なのも相変わらずか。荒人の口元が緩んだ。
「そなたに確認したい」
唐突に声色を変え、黎明が姿勢を正して言った。
「はい」
即座に荒人も背筋を伸ばす。
「巴慧との縁談だが、そなたは良いのか?真に望むことか?」
目を真っ直ぐに見据えて問うと、
「はい。私がそう望んでおります」
と、荒人は即答した。
「真か?」
「偽りございません」
「それなら良い。そなたの父が無理を言っているのではないかと思ってな。互いに子を成し、男児と女子(おなご)ならいずれは夫婦に…。そんな話をしていたが、親の口約束に子が翻弄されるべきではない。そなたの人生は、そなたのものだ」
「父上と黎明様がそのような話をされていたことは存じております。しかしながら、巴慧との縁談を望んだのは私自身です。父上の意志は関係ございません。黎明様がお許しくださるなら、巴慧と共に生きていきたいと願っております」
「その言葉を聞き安心した。そなたが傍にいてくれるなら私も心強いし、これほど嬉しいことはない」
その言葉を聞くと、荒人の目にうっすらと涙が滲んだ。
「ありがとうございます」
床に手をつき頭を下げる細い肩が、かすかに震えている。
「巴慧にはまだ話していないが、幼い頃から兄のようにそなたを慕っていた子だ。喜ぶ顔が目に浮かぶ」
黎明は目を細めた。
「そうなら良いのですが」
春に咲く花のように顔をほころばせてくれれば、どれだけ幸せだろう。いくら兄妹のように育ったとはいえ、この数年は一度も会っていない。巴慧がどんな反応を示すか不安を感じないわけではなかった。
「できるだけ早く、祝言の儀を執り行いたいと思っております。黎明様にもそのように取り計らって頂きますよう、何卒、よろしくお願い申し上げます」
「そのようにいたそう。祝い事は早いほうが良い」
黎明は力強く頷いた。

 職務に戻る黎明を見送り、上の間を出た荒人は安堵していた。これで巴慧と夫婦になれる。早く、早く祝言を挙げたい。もうすぐだ、もうすぐ夢が叶う。高ぶる感情を抑え、なんとか冷静な面持ちを保ちながら荒人は書斎へ向かった。   
 広い邸宅の縁側を歩きながら空を見上げる。連なる雲が紅く染まってきてはいるが、日没にはまだ早い。もし街へ行ったなら、そろそろ戻ってくる頃だ。
 幼い頃、街へ行くと言ってきかない巴慧に付き添い、荒人もよく比永の街へ出かけたものだった。黎明様が心配なさるから早く帰ろうと言っても、まだ大丈夫と言っては、興味の赴くままにあちこちへ行ってしまう巴慧に振り回されてばかりだった。付き人の与佐子が「さあ、帰りますよ!」と手を引っ張り、力尽くで連れ帰らなければならないことも度々あった。巴慧を守らなくてはと気合を入れて巴慧に付き添う荒人ではあったが、いつも帰途に就く頃にはへとへとに疲れていた。
 那祁(なぎ)家の当主である黎明の邸宅は、比永の中心から十里ほど離れたところにある。八方を山に囲まれた広大な土地を有する那祁家は「巳玄(みげん)の国」随一の力を誇り、その当主である黎明は実質、国を統べる者である。その役名は「国司」と言い、巳玄国府の最高位である。
 元来、巳玄の国では貴族の娘が自由に外出することは稀である。治安は安定しているが、年頃の娘が奔放に出歩くことを良しとしない風習が今なお強く残っているからだ。
(巴慧はただの貴族ではない。この国の国司の、たったひとりの愛娘だ。本人にその自覚があるかは甚だ疑問だが)
巴慧がいかに特殊な環境下で育てられているかを、荒人は比永を離れて初めて知るに至った。
(那祁家の娘が自由気ままに街中を歩き回っているなど、誰も想像すらしないだろうな)
巴慧は幼い頃から自由に外へ出ていた。幼い頃は特に何も思わなかったが、ある程度成長して世の理が分かってくると、それがいかに稀有なことであったかを理解するようになった。そして、不思議に思った。黎明は巴慧を目に入れても痛くないほど可愛がっている。心配ではないのだろうか。可愛いからこそ縛らずに、自由を謳歌させてやりたかったのだろうか。しかし、今や巴慧は十七になる。若い娘がたった一人の付き人を従えて街に繰り出すというのは、あまりに自由が過ぎないか。
 通路を渡りきり、草履を履いて庭に出ると、春を待ちきれずに咲いたらしい花が風に揺れている。石で縁取られた池の周りを半周して左の方へ進んで行くと、遠目に大きな建物が見えてきた。玉砂利が敷き詰められた小道をゆっくりと進む歩調とは対照的に、脈は激しく波打っている。
(情けない・・・。震えが止まらないとは)
右手を握りしめてから大きく息を吐いた。これほど緊張するとは思わなかった。巴慧が街ではなく、書斎にいることを予感しているからかもしれない。荒人の知る巴慧は本が好きな子だった。じっとしていることを苦痛に感じるほど活発な子が、唯一、本を読むときだけは大人しく座っていられた。一心不乱に書物を読む目は煌々と光り、知識を得ることに貪欲だった。街中を散策するときも同じだ。目に留まるものすべてに興味を持ち、疑問に感じることがあれば納得するまで追求した。
「世界がね、ぶわぁって広がっていく感じがするの」
腕を広げながら話す姿が鮮明に蘇る。大人になったら色んな国を旅したいとも言っていた。それが夢だと言って笑った顔を、そうかそうかと目を細めて眺めていた。
(夫婦になってからも、ある程度は自由にさせてやろう)
あの目から輝きを奪いたくはない、そう思った。
 那祁家の書斎には、貴重な書物が多数保管されている。数百年前から受け継がれる書物に加え、龍円(りゅうえん)府の文書館(もんじょかん)から贈呈されたものも数多くあり、巳玄の国のみならず「十貴国(じゅっきこく)」すべての国々にとって貴重な書物を那祁家は有している。当然ながらすべての書物は厳重に管理されており、平民が立ち入ることは許されない。入館できるのは一部の役人と高官ぐらいで、その者たちですら事前に許可を得る必要がある。そして、館内の書物を持ち出すことは、いかなる理由であろうが固く禁じられている。
 幼い頃、巴慧とともに頻繁にこの書斎に出入りしていた荒人だったが、一度だけ、一冊の本を持ち帰り、父にこっぴどく叱られたことがあった。たった一冊の本を持ち出しただけで何故そこまで怒られるのか理解できなかったが、それが掟だから守らなければいけないよと、黎明に言われたことを覚えている。
 そしてもう一つ、禁じられていたことがあった。広い建物の中には数十もの書室があり、その膨大な数の書物は題材ごとに細かく分類されている。機密文書が保管されている書室や、どのような書物があるかは不明だが、一部の者にしか閲覧が許されていない書室もあり、その辺りは厳重に警備されていた。そして、そのさらに奥深くに、ひとつの古びた扉があった。例のごとくお得意の好奇心を発揮し、各書室を散策し回っていた巴慧が見つけてきたのだ。「あの扉はなぁに?」と幼い巴慧は尋ねた。しかし、それを聞いた看守は表情を一変させ、「絶対に近付いてはなりません」と厳しく言いつけた。すばしっこい子供が、たまたま監視の目をくぐり抜けただけであったが、看守にとっては予想だにしない出来事だったらしい。普段は優しい看守が初めて見せる厳格な顔であった。
 その翌日、「ねぇ、何があるか知りたくない?」と巴慧が耳元で囁いた。荒人はため息をついた。入るなと言われて、「はい、わかりました」と引き下がるはずはないと思っていたが、ちと早すぎやしないか。
「だめだよ。絶対に近寄っちゃいけないって言われたばかりだろ?」
「良い考えがあるの」
巴慧の目が光った。どうせろくな考えではないな。そう思ったが、黙って続きを聞くことにした。
「日が暮れたら、ここにいる人たち家に帰るでしょ?その前に棚の裏側に隠れるの。で、みんないなくなったあとに秘密の部屋に行けば、入れると思う」
やれやれ。また現実味のないことを言い出した。
「無理だよ。扉には鍵がかかってる。しかも厳重な鍵だ」
「もちろん知ってるわよ。でもね、ここだけの話だけど」
ここで巴慧は意味深な表情を浮かべた。
「あの中に、なにかいると思う」
「なにかって?」
「わからないけど、気配を感じるの」
「犬でも飼ってるっていうのか?」
「犬なら吠えたら分かるでしょ」
「じゃあなんだ。人か?」
「分からない。人か獣か、それとも」
ここで巴慧は息を止めた。
「魔物、とか」
荒人は思わず噴き出した。何を突拍子もないことを・・・。屈託なく笑う荒人を睨み、巴慧は口を尖らせた。
「いいわよ!行ってみればわかるんだから。鍵がかかってても関係ないわ。だって、戸を叩いたら、中のものが答えてくれるかもしれないじゃない」
「その、中のもの、が本当にいればね」
荒人は端から信じていなかった。かと言って巴慧をひとりで行かせるわけにはいかない。二人は夕刻まで書物を読み、日が沈む少し前に書斎を出るふりをして、出口の近くにある棚の隙間に身体を忍ばせた。息を潜めてじっとしていると、次第に役人たちがひとり、またひとりと帰って行った。
「なぁ、そろそろ大丈夫じゃないか?」
「しっ!まだ誰かいるかもしれないでしょ」
ひたすらに耐えながら、完全に人がいなくなるのを待つ。
「よし、行こう」
真っ暗な中を二人は奥へ歩いて行った。小さな右手で荒人の左手を握り、半歩前を行く巴慧の息遣いから緊張が伝わってくる。人のいない書室はどこも静まり返り、小さな足音だけが響いた。次第に鼓動は早くなり、手が汗ばんできた。
「ここより先へ行ってはなりません。巴慧様、荒人様」
不意に呼び止められた二人は、「わぁっ」と後ろにひっくり返り、派手に尻餅をついた。「いててて」と、打ったところをさすりながら起き上がると、看守が仁王立ちをして行く手を阻んでいる。
「迷われたのですかな?出口はあちらですよ」
「いや、あの、まだ読みたい本があって」
しどろもどろに言葉を紡ぐ巴慧を看守は厳しい目つきで見下ろした。
「もう帰るお時間ですよ。出口までお供いたします」
看守の圧力に二人は屈するほかなかった。背中を丸めながら書斎を出ると、
「このことは私の胸に留めておきます。しかし、今回限りでございます。この意味を重く受け止めるように」
冷たく言い放った看守の言葉に巴慧の顔は真っ青になった。
「ごめんなさい」
涙に濡れる頬をこすりながら謝る巴慧の横で荒人もがっくりとうなだれていた。そうして、意気消沈した二人は看守の視線を背に感じながら、すごすごと書斎を後にしたのであった。
 それからというもの、巴慧は書斎の中では大人しく振舞うようになった。荒人のことを巻き込んでしまったことを申し訳なくも思っているようだった。よほど恐ろしかったのか、看守を見ると萎縮してしまう巴慧を見て荒人は心が痛んだ。もっとちゃんと止めていれば良かったのだ。巴慧が望むなら、どこへでも共に行きたいと願ってしまう自分の愚かさを責めた。
 そんなことを思い出しながら歩いていると、あっという間に書斎の前に着いた。もっと距離があったように思うが、大人になるとあらゆるものが小さくなるものだ。歩を止めて、威厳を感じさせる立派な建物を仰ぎ見た。その堂々たる佇まいは畏怖の念すら抱かせる。だが同時に、人里から隔離されてじっと息を潜めている巨大生物のようにも見えた。巨大な樹々が襲い掛かってくるような錯覚を覚えて、荒人は急いで石段を上った。
 扉を開けると、看守に許可証を出すよう言われた。若く、初めて見る顔だった。言われたとおりに署名し、中へ入って行くと、数十万もの書物が目に飛び込んできた。
―わぁ!
思わず息を呑んだ。視界が本で埋め尽くされている。あまりの光景に、荒人は懐かしさ以上に衝撃と感銘を受けた。本棚の中で秩序正しく並べられている書物が、まるで夜空にきらめく星のように見える。本を追いかけて目線を上げていくと、天井に彫られた数々の模様が降ってきた。しばらくの間、呆然と模様を目でなぞった。一瞬だけ近くに感じた天井は、やはり子供のころと変わらず高かった。
(これほど、すごいものだったのか)
まるで別世界へ足を踏み入れたような眩暈を覚える。やはり、子供のころとは違うなと荒人は思った。成長とともに真の価値が分かるようになったらしい。
「これは・・・、時間がいくらあっても足りないな」
幼子のように目を輝かせながら見て回る荒人の脳裏には巴慧の姿が思い描かれていた。昔は遠い異国の話が好きだったが、今はどんなものを読んでいるのだろう。巳玄や十貴国についても読むようになっただろうか。国の成り立ちについてか、あるいは皇族についてか。いや、巴慧のことだ、英雄たちの話かもしれない。
 巴慧が関心を示しそうなものを探していると、「国史の書室」に辿り着いた。幼い頃は難しすぎて手に取らなかった書物の数々が今は宝の山に見える。
 中に入ると、大きな机に向かい、ひとり静かに読書をする女性の後ろ姿が目に触れた。上質な着物と綺麗に結われた髪から、身分の高い女性であることが窺える。その姿を目にした途端に胸は高鳴り、脈が激しく打ち始めた。
(巴慧だ)
間違いない。巴慧、その人である。会いたいと切に願い、辛い日々を耐え忍んだ。寝ても覚めても会える日を夢見た、その人だ。荒人は声をかけぬまま、ゆっくりと近づいていった。
 窓の隙間から侵入した風が髪を揺らした。その人は顔を少し上げて、長く艶やかな黒髪を手で押さえながら、ふとこちらを見た。白い肌が美しく煌めき、鈴のような目がまっすぐに向けられる。思わず足を止めた。立ちすくんだまま、その人を見つめた。
(あぁ・・・、巴慧だ)
目頭が熱くなった。しばらくの間、二人は見つめ合った。このまま永遠に続いてほしいと願うほど、流れる時は穏やかで静かだった。
「荒人?」
「あぁ。久しいな、巴慧」
深みを増した声が琴線に触れて、荒人は言葉に詰まった。
「本当に荒人なの?どうしてここに?」
勢いよく立ち上がると、桃のような顔を綻ばせながら巴慧は駆け寄って来た。
「どうして?いつ来たの?驚いた!」
一瞬で幼い頃に戻ってしまった。くるくると目を動かしながら話す巴慧を見ていると、無理して表情を取り繕っているのが馬鹿らしくなる。
「ははは!なんだ、ちっとも変わらないじゃないか。立派な女性になったと思ったのに」
「立派な女性よ。背だって伸びたでしょ?」
確かに。背筋を伸ばしてみたが、目線がほとんど変わらない。
「本当だ。おかげで、顔がよく見えるな」
「そうでしょ?ここ数年ですごく伸びたんだから」
笑うと陶器のような肌が艶めき、水晶のような目が優しい光を放った。細く整った鼻筋の下にある小さな紅い唇に目が触れると、荒人はそっと視線を反らした。
「今日は街へ出かけたんじゃなかったのか?」
「出かけるつもりだったけど、気が変わったの。今日は読書の日」
そう答えると巴慧は眉間に皺を寄せて、頬を膨らませた。
「荒人が来るって、お父様は知ってたはずよね?言ってくれればよかったのに」
「黎明様は、客人が来るから部屋で待つように言ったとおっしゃっていたよ」
「え」
「ちゃんと聞いてなかったな?」
「そういえば言ってたかも・・・。けど、荒人が来るとは思わないもの!ちゃんと教えてくれれば迎えに行ったのに」
「迎えに?どこまで?」
「比永の街までよ」
「本当か?それは惜しいことをしたな」
そう言うと、二人は子供の頃のように笑いあった。
再会の喜びに浸っていると、あっという間に時間が経ってしまった。ふと外を見ると、日はとっくに沈んでいる。
「かえろっか」
幼いころ何度も繰り返した言葉を口にすると、この空白の数年間が泡のように消えてしまった。とうとう、帰ってきたんだ。そう思うと、荒人は喜びのあまりに苦しくなった。

部屋へ戻り食事を取っていると、「荒人、全然変わってないから安心した」と、巴慧が嬉しそうに言った。
「変わってないとは失礼だな。変わっただろう?もう十九だ」
立派になった、見違えたと言われると思っていたのに、拍子抜けもいいとこだ。
「変わってないよ。優しい表情も、穏やかな話し方も、品の良いところも、全然変わらない」
「良い部分が変わらないということか。それなら、悪くはないな。誉め言葉として受け取っておこう」
「もちろんよ」
色とりどりの料理に舌鼓を打ちながら、酒をくいっと飲み干す。体の芯からじわりと熱が広がるのを感じながら、こんなに幸せでいいんだろうかと荒人は夢見心地で思った。
「お父様も一緒に食べられたらよかったのに」
いつも別室でひとり、ぽそぽそと食事を取る巴慧は寂しそうな表情を浮かべた。
「仕方ないさ」
国司の一日は長い。黎明が深夜まで仕事をし、夜が明ける前に起床していることはよく知っている。
「お父様は働きすぎなのよ。この前なんか目の下が真っ黒になるまで無理してたんだから」
そう言いながら巴慧は次々と食べ物を口へ運んだ。相変わらずよく食べるなと思いながら、荒人は箸をおいた。
「大丈夫だよ。もうすぐ、この家に優秀な補佐が来るから」
「優秀な補佐って?」
「それは今後のお楽しみ」
人差し指を口元に当てる荒人を、巴慧は不思議そうに眺めた。
 
翌朝、身支度を整えて居間へ行くと、荒人と黎明が並んで着席していた。
「お父様?どうしてここに?」
挨拶するのも忘れて目を丸くしていると、
「久しぶりに一緒に食べようと思って、ここへ運んでもらった」
と、黎明が説明した。
「嬉しい!三人で食べるの、いつぶりかしら!」
着物の裾を蝶のようにひらひらさせながら入ってくると、巴慧は落ち着かない様子で着席した。
「おはよう、お父様。よく寝れた?」
春の暖かい陽光が娘の黒髪にきらきらと反射しているのを愛でながら、黎明はゆっくりと頷いた。
「あぁ。いつになくよく眠れたよ」
「それはよかった。荒人は?ちゃんと眠れた?寒くなかった?旅の疲れは取れた?変な夢は見なかった?」
「いきなり質問攻めだな。おかげさまで、ぐっすり眠れたよ」
朗らかに笑う幼馴染と父の顔を交互に見ながら、巴慧はうずうずと爪先を動かした。
「では、いただこう」
手を合わせると、三人は箸を持った。声を弾ませながら食べてはいるが、やはり巴慧も良家の娘である。箸の使い方、お椀を手に取る所作、すべてが美しい。
(さすがは黎明様の娘だな)
幼馴染の成長を誇らしく思いながら、荒人は振舞われた料理を味わった。
 食事を終えると、黎明は荒人に目配せをした。
「巴慧、大事な話がある」
「大事な話?」
寛いだ様子で湯呑を持ったまま尋ねる娘に、「大事な話だから、しっかりと聞きなさい」と、黎明はいつになく厳格な面持ちで言った。
「はい、お父様。どのようなお話でしょうか」
姿勢を正して尋ねると、黎明は隣にいる荒人を見てから深みのある声で言った。
「荒人と再会できて、どうだ。おまえも嬉しいだろう?」
「もちろんです。こうやって一緒に過ごせて、とても嬉しく思っています」
「幼い頃から兄妹のように育った。気心も知れているし、誰よりも信頼できる男だ」
「それはそうですが」
何かと思えば、荒人が兄のような存在であることは今に始まったことではないし、畏まって言うようなことでもない。父の意図が見えずに巴慧は困惑した。
「おまえもよく知っていることだが、荒人の父である啓史は同じ学府で学問を修めた級友だ。切磋琢磨しながら武術の修行にも勤しんだ。私にとって啓史は唯一無二の友であり、兄弟のようなものだ」
隣で誇らしげに聞いている荒人を一瞥してから、「はい、存じております」と、内心首を傾げながら巴慧は相槌を打った。
「啓史と私は学業を終えたときに、ある約束をしたのだ。いつの日か子を成し、男と女であったなら祝言を挙げさせようと」
娘の反応を探るように、ここで一旦、黎明は口を閉じた。当の娘は意味を理解しているのか否か、大きな目をぱちぱちと開けては閉じている。
「無論、友人同士のたわい無い口約束に過ぎぬが、こうやっておまえたちを見ていると、夫婦として力を合わせて歩んでいけるように思うのだが、そうは思わぬか?」
ようやく意味を理解した巴慧は身を反らし、後ずさりした。
「私が荒人と夫婦に、ということですか?」
「そうだ。荒人はすでに第一級の学位を修め、この若さで官人登用試験にも合格している。知識、品性、家柄、すべてにおいて申し分なく、武術にも秀でている。おまえの夫として、これ以上にふさわしい者はいない」
黎明の隣ではにかむ荒人を見て、これは茶番ではないことを巴慧は理解した。
「お待ちください。私たちは兄妹のようなものです。いきなり夫婦になど」
「兄妹のように育ったが、兄妹ではない」
黎明はぴしゃりと言った。動揺を隠せぬまま、巴慧は父の隣にいる荒人に同意を求めた。
「荒人は良いのですか?私のことは妹のようにしか思っていないでしょう?」
「そんなことはない。そうだろう?荒人」
父は否定したが、巴慧は繰り返した。
「いいえ、妹のようにしか思っていないはずです。幼い頃から実の妹のように可愛がってくださったのですから」
不安げな視線を荒人に向けながら、巴慧は声を震わせた。
「私は、巴慧を妹と思ったことは一度もありません。幼い頃から、いつか巴慧を伴侶にと願っておりました」
凍り付いたように巴慧の体は硬直した。唖然として荒人を見つめていたが、堰を切ったように反論し始めた。
「私にとって荒人は大事な幼馴染であり、実の兄のような存在です。夫になど、できません」
「私は兄ではないし、兄になりたいと思ったこともない」
そう断言する荒人が霞んで見える。そんなはずはない、兄妹だったはずだ。ずっと、一緒に兄弟のように育ったではないか。
「啓史様とお父様の口約束に、荒人が従うことはないわ」
信じられないし、信じたくなかった。これまで繋いできた絆は、男や女といった関係に収まるものではないはずだ。もっと卓越したもののはずだ。数々の思い出が今も色褪せることなく鮮やかなまま心にある。そういったものが崩れていきそうな危機感を感じて、巴慧は不安を打ち消そうとした。
「私たちは、友達でしょう?何にも代えがたい、大切な友達だわ」
「巴慧」
狼狽える巴慧とは打って変わり、荒人は落ち着き払った様子で想い人の名を呼んだ。
「私は、あなたと夫婦になることを望んでいます。嘘偽りなく、私が望んでいることです。父に言われたからではありません」
真剣そのものである眼差しと表情に、巴慧は言葉を失った。
「婚礼式も出来るだけ早く挙げたいと思っています」
「ちょっと、待ってください。私は、そんな・・・」
「荒人では不服だと言うのか?」
黎明の厳しい声色に思わず言葉を飲み込んだ。
「・・・いえ、そういうわけでは」
なんとか、消え入りそうな声を絞り出す。
「突然のことで驚くのも無理はない。だが、案ずることはない。おまえが望む最高の形で祝言を挙げよう」
 巴慧は全身の力が抜け落ちていくのを感じた。黎明と荒人が「日取りをいつにするか啓史と相談いたそう」「はい、占術師にも相談して、吉日を選んでいただきましょう」「なにかと慌ただしくなるが、めでたいことだ。みな喜ぶ」といったやり取りをするのを、巴慧は放心状態で聞いていた。あまりに予期せぬことで、頭がついていかない。そして何よりも、自分の意志は尊重されないのだという失望感に打ちのめされていた。
「それでは、私は父に手紙を書いてまいります」
荒人は立ち上がり、恭しく一礼した。そして廊下へ出ると顔をくしゃくしゃにして、大きく息を吸い込んだ。
(とうとう願いが叶う!ようやく、ようやく叶うんだ!)
心の中で叫ぶと、子供のように走り出した。朝の風がかつてないほど心地いい。飛び立つ雛のように駆ける姿は、はたから見れば酒に酔い、我を忘れて舞っているように見えるかもしれない。だが、そんなことはどうでもいい。巴慧と夫婦になれる、その事実が何よりも嬉しい。巴慧のきょとんとした顔を思い出し、くすりと笑い声を漏らした。よほど驚いたらしい。それも無理のないことだ。顔をほころばせて喜ぶ巴慧と抱擁を交わせなかったのは残念だが、祝言の日には白い花嫁衣裳に身を包み、向日葵のような笑顔を見せてくれるだろう。寝室に駆け込むと、急いで机に向かい、次から次へと湧き上がってくる思いを抑えきれないまま筆を走らせた。
 その一方で、巴慧は微動だにせずに、手を強く握りしめていた。その表情は重く、口を真一文字に結んでいる。
「巴慧」
父の呼びかけにも答えずに、目の前に置かれた湯呑を凝視している。
「巴慧!」
二度の呼びかけにようやく我に返り、ゆっくりと父の方へ目線を向けた。
「どうした、そんなに驚いたか」
黎明の穏やかな声音が、今回ばかりは癪に障る。
「なぜ、相談してくださらなかったのですか」
「相談?」
意に介せぬというように、黎明は首を傾げた。
「私にとって、このように大事なことを、なぜ相談してくださらなかったのですか」
「なにが不服だ。おまえにとっても良い話だろう?」
「荒人は兄のようなものです。夫になど」
「良いか、巴慧。まだ理解できないかもしれないが、おまえのことを最も理解して敬ってくれる者を夫に選ぶべきなのだ。そういう意味では荒人をおいて他にいない。誰よりもおまえを重んじ、愛しんでくれる男だ。違うか?」
「それは」
口ごもる巴慧に追い打ちをかけるように黎明は続けた。
「荒人以上に相応しい男はいない。斎海家の息子だからではない。親友の息子だからでもない。荒人自身を見て、そう確信するに至ったのだ。それともなにか?他に想いを寄せる者がいるのか?」
「いえ、そのようなことは」
「なら問題あるまい」
このままでは太刀打ちできない。何とかせねばと、巴慧は混乱する頭で必死に考えた。
「私には、もったいない話です。荒人にはもっと相応しい人がおりましょう」
「それは、那祁家のことを分不相応だと言っているのか?」
古来から脈々と続く那祁家は巳玄を統べる一族であり、その身分は最高位である。黎明の声はさらに威厳を増した。
「いえ、そうではなく、本当は妻にと望む方が他にいらっしゃるのでは」
「荒人はそんな不誠実な男ではない。おまえが一番よく知っているだろう。幼い頃からずっと、おまえの夫になることを願っていたと言ったではないか。離れても一途に想い続けていたのだ。これほど誠実な男は滅多にいるものではない」
荒人が誠実だということはよく知っている。けれど、どうしても信じられないのだ。荒人がずっとそんな風に思っていたなんて、想像すらしなかった。
「突然そのようなことを言われても、その、困ります」
「何が困るというのだ」
「私には早すぎます。縁談など」
「おまえはいくつになった?」
「十七です」
肩を小さくしながら答える娘を、やれやれといった表情で見ながら黎明はため息をついた。
「夫をもらうのに相応しい年齢だ。早すぎることはない」
「でも、やっぱり、まだ心の準備ができていません。こんな気持ちで夫婦になっても荒人に失礼です」
「巴慧!」
静かな室内に黎明の声が鋭く響いた。
「幼子のように駄々をこねるのはやめなさい。おまえは那祁家の跡継ぎだ。その意味を十分に理解しているはずだろう。しかるべき時がくれば、しかるべき相手を迎えねばならない。私とて、いつまでこの家を守り、国司の役を全うできるか分からないのだよ。優秀で信頼の置ける跡取りが必要なのだ。荒人なら、この家も、おまえのことも、そして巳玄の国も、全身全霊をかけて守ってくれるだろう」
そして、こう付け加えた。
「荒人は、それができる男だ」
巴慧は父の顔を凝視した。ふぅっと息を吐くと、黎明は諭すように言った。
「父の心を理解しておくれ、巴慧」
 それ以上は何も言えなかった。黎明に深くお辞儀をしてから無言の内に外へ出た。そのまま自室に戻り、畳の上にうつ伏せに寝そべった。体に力が入らない。歪んだ地面から手が伸びてきて、ずるずると地中に引きずられていくような感覚がした。これが、那祁家に生まれた女の定めだと言うのか。どうしても抗えないと言うのか。体が真っ暗な沼へ落ち、ごぼごぼと口に水が入ってきた。咽ながら、悶え苦しみながら、さらに下へと落ちてゆく。そんな感覚に絶望した。
(お父様、どうしてですか。私の心など、どうでもいいのですか)
常に自由を尊重してくれた父が頑なに訴えを退けた。その事実が巴慧の心をずたずたに切り裂いた。
(縁談だけは、あなたが決めるというのですか)
一度祝言を挙げれば、自由はない。それがしきたりなのだ。妻という役割を演じ続けるという、たったひとつの未来しかない。自分の足で立ち、自由に人生を歩んでいきたい。自分の手で未来を創っていきたい。そんなことは口が裂けても言えない。決して許されない。
「どうしたらいいの」
こぼれた言葉が天井へ登っていき、空しくかき消された。ずっと大切にしていた夢や思い描いていた未来も、こんな風にかき消されてしまう。そう思うと、非力な自分を呪いたくなった。真っ暗な塀の中に閉じ込められて生きるのはいやだ。惨めな自分を呪いながら生きるのはいやだ。
 ゆっくりと体を起こし、襖を開けて外を見た。木の枝に一羽の鳥がとまっている。しばらくそこで休憩しているようだったが、次の瞬間、羽を大きく広げて、空高くへ飛んで行った。巴慧はいつまでもその鳥の姿を目で追った。遥か遠く、空の彼方へ消えても、その姿を追い続けた。
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