三、老湾へ(3)

文字数 2,900文字

 比永の街の外れには近づいてはならない領域がある。その地区の名を口にすれば、ある者は顔をしかめて口をつぐみ、またある者は辺りを見回してから、「どこで聞いたか知らないけど、その名は禁句だよ」と囁く。しかし、多くは首を横に振り、そんな場所はないと言い張る。彼らは嘘を言っているわけではない。本当に生まれてから一度も、その名を聞いたことがないのだ。
 そして比永にはもうひとつ、人々が容易に寄り付かない地区がある。千年広場の北部に位置する大国地区だ。官府を筆頭に、国の最も重要な機関が門を構えており、街の治安を守る憲兵隊の総本部も在る。立派な建物がずらりと並ぶ景観は見る者を圧倒し、安易に立ち入ることを躊躇させる。禁じられているわけでもないのに、ほとんどの住人が「敷居が高い」と言って近寄らないようにしていた。
 北東と南西の対極に位置するふたつの地区は、世の不条理そのものである。天と地、光と影、表と裏・・・。一方は天の祝福を受けて繁栄を極める唯一無二の場所、そしてもう一方は不気味なほど覆い隠された謎の領域・・・。
 そんな日の当たらない場所「老湾」へ続く道を、二人は歩いていた。
「ねぇ、カイリ、本当にこっちで合ってるの?」
家を出てからというもの、川から吹いてくる湿気た匂いがこもる狭い路地を、ただひたすらに西へ向かって歩き続けている。ミトたちが住む老街の路地はごみが散乱してはいるが、一応は路地と呼べるものだ。だが、ここはどうだ。積まれた瓦礫の間をすり抜けて進むしかないところを路地と呼べるだろうか。
「合ってるよ。ほら、足元に気をつけてよ」
カイリの朗らかな声に不安は増すばかりである。先ほどから下ばかり見ている巴慧は地面から大きな釘が突き出ているのを見ると、寸でのところで避けた。危ない。足を突き刺すところだった。驚きのあまり、なにをどうすれば良いのか皆目わからない。いったいどこへ連れていかれるのだろうか。これなら獣道を歩く方が楽だったのではないかとすら思えてくる。カイリに手を引っ張ってもらいながら瓦礫の上へ登って行くと、がらがらと激しい音を立てて足元が崩れた。
「危ない!」
カイリが引っ張り上げてくれたおかげで転落は免れたものの、実に危なかった。まさか、比永の街の外れにこんな場所があるなんて・・・。想像したことすらなかった。話で聞いていたとしても、この目で見るまではとても信じられなかっただろうと思う。高い建物が光を遮っているわけでもないのに、どこもかしかもどんよりとしていて薄気味悪い。魑魅魍魎が蠢く魔の住処へゆっくりと潜り込んでいくような感覚に襲われて、先ほどから背中が寒い。
「ねぇ、カイリ、本当にこっちで良いの?」
「もー、大丈夫だって言ってるだろ?なんだ、怖いのか?らしくねぇなぁ」
「怖いわけじゃないけど、ちょっと、気味が悪いというか」
嘘だ。本当は怖いという感情しかない。
「大丈夫だよ。俺のこと信じなよ」
どう見ても頼りないカイリに言われても・・・と思ったが、ふと思い出した。
(山で私が一新に言ったことと同じだわ)
一新も信じてついてきてくれた。なら、自分もそうするだけだ。
「ふぅ・・・」
呼吸を整える。
「もうすぐだから、がんばれ」
自信たっぷりの顔で力強く頷くカイリ。
「なんか私、おかしいかも。カイリが頼もしく見えるなんて、よっぽど気が動転してるのね」
ため息混じりに首を振ると、「もう立派な大人なんだから、頼もしくて当然だろ?」とカイリは胸を張った。立派な大人とは聞き捨てならないが、なんだか逞しく見えるから不思議だ。
「はいはい、信じてついて行くから案内よろしくね」
笑いながら言うと、カイリは任せろと言って胸を拳で叩いた。
 瓦礫の山を四苦八苦しながら下りて行くと、今度は地面が水浸しになっている。雨が強く降ると近くにある川が氾濫し、この一帯が水没するのだ。この辺りが特に貧しいのは、安全な地域に住めない人々が川沿いまで追いやられたからである。貧民街での生活は貧困や寒さだけでなく、水との戦いでもあった。
 川に掛けられた桟橋を渡ると、前方に淡い光が見えてきた。足を濡らしながら歩いて行くと、少しずつ光の海が大きくなってくる。
「ほら、ぼぉっとしてると、また転ぶぞ!」
前方ばかりに気を取られていると、カイリに注意されてしまった。再び視線を足元へ戻し、とにかく転ばないように気を付けて歩いた。つくづく思うが、ここまで歩きづらい道は初めてだ。小さな瓦礫の山をいくつも越えると、「着いたよ」と言う声が聞こえた。視線を上げると、目の前に信じられない光景が広がっていた。
「ここは、いったい・・・」
巴慧は言葉を失った。目の前に街がある。遠くに見えていた淡い光の海が、見紛うことなき「街」へと変貌している。
「ほら、行くぞ」
手を引かれるままに進んでゆくと、まるで雲の上を歩いているように足元がふわふわした。風に揺れる無数の提灯の明りが大河のように後方へ流れていく。昼間だったはずなのに、一瞬のうちに夜の世界へ迷い込んでしまった。
「ここが老湾さ。すげぇだろ」
カイリの声が遠くで揺れた。巴慧は息を吞みながら視線を泳がせた。左右に聳え立つ建物は立派で、造りも頑丈だ。虎や龍の細工が施された外壁を照らす提灯の火は不自然なほど紅く、じっと見ていると目がくらむ。ここは現実の世界だろうか・・・。巴慧は幾度も足を止めて、まるで生きているかのような彫刻の数々を仰ぎ見た。
 圧倒されながら視線を前方へ戻すと、艶やかな着物に身を包んだ女が扇子を仰ぎながら歩いてくる。丁寧な化粧が施された顔で、その女はちらりと二人を見た。その色っぽい目つきと妖艶な姿に巴慧はうっとりとした。
「ははは、見とれてやんの。この辺は綺麗な人が多いんだぜ」
カイリが得意げに言う。すれ違いざまに漂う微香に引っ張られるように、巴慧は女の後ろ姿を目で追った。
 しばらく進むと、多くの人で賑わう通りに出た。だがすぐに巴慧は足を止めた。たむろする髭面の男たちが煙草をくゆらせながら、じっとこちらを見ている。彼方此方(あちこち)から漂ってくる煙が鼻腔を刺した。すれ違いざまに睨みつけてくる男も、店の門番らしき男も、みな一様に鋭い目つきをしている。何しに来やがったと言わんばかりの眼差しは、余所者を忌み嫌う心情を現している。
「どうしたんだよ。ほら、早く行くぞ」
そんなことは露ほども気にしないカイリは巴慧の手をぐいぐいと引っ張った。
 同じ通りの一画に、一際目立つ建物がある。高く立派な扉は繊細な金細工で縁どられ、なにやら異国の文字のようなものが刻まれている。その前で立ち止まると、カイリは慣れた様子で扉をがんがんと叩いた。
 しばらく待つと、額に古い傷のある大男が扉を開けた。その形相を見た途端に巴慧は後ずさりした。男は顔を動かさぬまま、じろりと目玉だけを下へ動かし、来訪者の姿を確認した。
「おやっさんに用があるんだけど、通してくれる?」
男は口を一文字に閉じたままカイリを見下ろすと、その鋭い目線を巴慧へ向けた。体にびりびりと緊張が走る。
「中で待ってろ」
猛獣が唸るように言うと、男は二人を中へ通した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み