三、老湾へ(5)

文字数 2,253文字

 次に向かったのは、ミトの馴染みという商人の屋敷だった。老街に戻り、乱雑に建ち並ぶ商店の間を潜り抜けるようにして歩いていくと、この辺りでは立派と呼べる一軒の家屋の前に辿り着いた。
「おやっさん!俺だよ、カイリ!」
どんどんと力任せに戸を叩くカイリの動作には、先ほどと同様に遠慮の欠片もない。中から階段を下りてくる足音がした。ほどなくして、まだ年端のいかない女の子が戸の隙間から顔を覗かせた。
「入って」
挨拶もなくぶっきらぼうにそう言うと、女の子は二人を中へ手招いた。めぼしいものが何もない殺風景な部屋に二人を案内すると、その子はにこりともせずに階段を上って行った。相変わらず愛想のないやつだと、カイリが文句を垂れる。
「悪かったな。愛想のないガキで」
女の子の姿が見えなくなったのとほぼ同時に、屋敷の主が上階から下りてきた。背丈のある毛むくじゃらの男で、もう何年も剃ってないのではないかと疑うような醜い髭を生やしている。こう言ってはなんだが、見るからにむさ苦しい男だ。
「よう、ばあさんは元気か」
どかっと床に座ると、二人にも座るよう目配せし、男はにやっと黄色い歯を見せた。
「元気だけが取り柄だよ。妖怪かと思うぜ。一生くたばらねぇんじゃねぇか?」
「はっはっは!妖怪に違いねぇ。でもまぁ、そんな風に言ってても歳には勝てねぇもんさ。あぁ見えて、心臓が良くねぇんだろ?」
「昔の話さ。今はぴんぴんしてらぁ」
雑談しながら近況を報告すると、カイリはこう切り出した。
「ところで本題なんだけどさ。馬を買いに来たんだ。この子によく走る強い馬を譲ってやってくんねぇか?」
「馬を?この嬢ちゃんにか?」
またもや「嬢ちゃん」と言われたことが可笑しくてたまらないという顔で、カイリは下唇を噛んだ。
「お嬢ちゃん、馬に乗れるのかい?それとも、お父さんのお使いで来たのかな?」
相手が可愛らしい女の子とあって、男の声が見た目からは想像もできないほど柔らかくなった。薄気味悪いものを見るようにカイリは口をへの字に曲げると、げぇっと舌をだした。
「いえ、私が乗るためです。馬には乗れるので大丈夫です」
「馬に乗れるのか!そいつはすげぇなぁ」
やめろ、その猫なで声。脇腹を突っついてくるカイリを無視して、男は腕を組んだ。
「とは言ってもなぁ、よく走る馬はたいてい気性が荒いもんだ。お嬢ちゃんに扱えるかねぇ。やつらも人を見てるからなぁ。弱いと見なされたら、すぐに馬鹿にされるぞ」
「大丈夫、大丈夫!すぐに乗りこなせるよ」
もはや尊敬に値するほど楽天的なカイリを無視し、男はからかうように言った。
「お嬢ちゃんには仔馬が良いんじゃねぇか?隣の小僧も仔馬がお似合いだがな」
そう言うと、男は「がっはっは」と野太い声で笑った。
「俺だって馬ぐらい乗れるよ!ったく、いっつも一言余計なんだから。強い馬が良いって言ってんだから、さっさと見立てろよな!」
「金はあるのか?良馬は高くつくぞ」
金と聞いて、自分のものでもないのに自慢げにカイリは胸を張った。
「金ならあるから心配すんな。おっさんが言う額を払うぜ」
男は無言のまま部屋から出て行き、何者かと言葉を交わすと、満足げな笑みを浮かべて戻ってきた。
「そこまで言うなら、超一級品の馬を売ってやる」
そう言うと、指を三本たてて見せた。
「金貨三枚!?」
素っ頓狂な声が響く。
「ばか、金貨なわけねぇだろ。銀貨三十枚だ」
「なーんだ、そらそうだよな。あー、びっくりした」
カイリは大げさに胸を撫で下ろした。巳玄の人々にとって馬は最も身近な移動手段である。他国との交流も盛んで、長距離を移動する者も多い。そういった人々にとって、馬はなくてはならないものだ。よって、馬商人の数も多く、比較的安値で取引されてはいるが、良馬ともなれば値が張る。銀貨三十枚と言えば、贅沢しなければ数年は暮らせる額だ。つい今しがた大金を目にしたことで感覚がおかしくなってしまったが、普通に考えれば銀貨三十枚も大金であることに違いはない。もっと手頃な馬でもいいんじゃないかと思ったが、「一番良い馬を買いなよ」と繰り返し言ったミトの顔がちらつく。
「良い馬に間違いないんだろうな」
カイリは男の顔を睨んだ。
「誰に言ってんだ。比永一の馬と言っても過言じゃねぇ。この俺が保証する」
商売をする上で何よりも大事なのは信頼だ。それを失えば、取り戻すことは容易ではない。カイリは納得し、頷いた。
「わかった。巴慧ちゃんは、それでいいか?」
巴慧も頷いた。自分には立派すぎる馬かもしれないが、今後の旅路を思えば、強くて速い馬に越したことはない。巴慧は小包から銀貨を三十枚取り出し、男に渡した。男は紙と筆を手渡し、署名するよう求めた。
「馬を引き渡すのは夜になる。取りに来るか?」
「日が暮れてからここまで来るのは大変だから、うちまで届けてくれよ」
承知したと、男はしゃがれた声で答えた。
「それと、お嬢ちゃん。これはおまけだ。持って行け」
そう言うと、男は巴慧に一本の短刀を差し出した。ずしりと重たい刀の感触が両手に沈む。
「ありがとうございます」
小さな手に短刀を握りしめて、巴慧は心からの礼を言った。男は角ばった顔をほころばせた。
「また何かあれば、いつでもおいで」
まったく、可愛い子にはでれでれしやがって。
「用は終わったし、さっさと帰ろうぜ。じゃあな、頼んだぞ!」
べぇっと舌を出し、カイリは巴慧の手を引っ張って行った。
「それが人にものを頼む態度かよ」
男は悪態をつきながらも、やれやれと困ったような笑みを浮かべながら二人を見送った。
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