一、息、潜める

文字数 2,033文字

 黄昏時は世界が緋色に染まる最も甘美な瞬間だ。静寂に包まれた山頂は息を呑むほど美しく、この世の最も秘められた場所のひとつとなる。
 今まさに、その時を迎えようとしている。鳥が囀るのを控えているのは、山へ敬意を払っているからだろうか。この空を埋め尽くそうとしている暗雲さえ、沈みゆく太陽のために動きを止めているように見える。
 だが、この暗雲がなければ、もっと美しい夕景だったに違いない。落陽を待ちわびていたかのように沸いてきた湿気が、図々しく肌に張り付いてくる。髪を揺らす微風も水分を含み、生暖かくて気持ちが悪い。
「一雨、来そうだな」
ぽつりと呟くと一理は手を伸ばし、ポキッと小枝を折った。雲行きが怪しくなってきたことを喜んでいるのか、憂えているのか・・・。湿気を吸い込んだ葉を指先で弄びながら、どちらとも取れない表情で淀んだ空を見上げた。
 じきに辺りは黒々とした闇に支配される。本音を言えば、完全に日が暮れてから動きたかった。通常の人間は闇に弱い。視界が曇れば、たちまち動きが制限される。そして、大きな不安に支配される。
 村を出てから二年余り。それまでは普通だと思っていたことが必ずしも普通ではないことを知った。どうやら、普通ではないのは自分たちの方だと知るまでに時間はかからなかった。最初は大いに戸惑い、理解に苦しんだ。昼と夜で、そんなに違うのか?どう違うと言うのか。暗闇の中でも視力が変わらない一理にとって、視界が闇に覆われるという感覚がどのようなものかを理解するのは難しい。それは善や仁も同じだ。三人にとって夜は、ほんの少し色が変わる世界、それだけのことなのだ。特に仁は、暗闇の中にいても遥か遠くまで見通す。その能力は一理から見ても神懸っている。だからこそ、巴慧たちの道しるべ役を仁に任せることにした。
 夜になれば、敵は動きづらくなる。肉体は鍛えられるが、視力はそうもいかない。利はこちらにある。
(けどなぁ、姫さんとカイリも普通の人間なんだよなぁ)
馬の扱いも未熟な点が目立つし、圧倒的に経験が足りない。日が暮れれば、移動は困難になる。しかも、走るのは平地ではない。月明りだけを頼りに足場の悪い山道を走るのは危険だ。
(空模様を見る限り、その月明りも当てにできそうにねぇけどな)
やはり、日が完全に沈む前に山を脱出せねばならない。山を脱出すれば、あとはどうにでもなる。
 
 一理が大樹の頂へやって来る少し前・・・。
 雲間から差し込む光が弱まりを見せ始めた頃、六人は洞窟を出た。すでに湿度が増し、薄い霧が立ち込めている。
「いいか、姫さん。なんにも心配せずに真っ直ぐ、前だけを見て行けよ」
いつもの口調で言うと、強張る顔になんとか笑みを作りながら巴慧は頷いた。
「緊張してるか?」
そう問うと、ふぅっと息を吐いてから、
「そうですね。でも、大丈夫です。ひとりじゃありませんから」
と言って、胸の前で拳を握りしめた。
「その通りだ。心配すんなよ。大丈夫だからな」
気丈に振舞ってはいるが、唇は震えている。無理もない。カイリはどうだ?と思い目線を動かすと、巴慧以上に強張った顔で棒のように突っ立っている。
「大丈夫か?おまえ」
すぅっと近づき背後から囁くと、うぎゃあと言って飛び上がった。つくづく、見ていて飽きない奴だ。
「なんだ、今の声。どうやったら、そんなガマガエルみてぇな声が出せんだよ」
「うるせぇな!背後から近づくからだろ!」
「顔が真っ青だぜ。赤くなったり青くなったり、忙しい奴だな」
ひとしきりからかうと、一理は表情を引き締めて言った。
「いいか、カイリ。冷静に行けよ。慌てふためくんじゃねぇぞ。平常心だ、平常心」
「わかってるよ」
「泣くのは全部終わってからにしろよ。一新はおまえがしっかり守るんだぞ」
「泣かねぇよ!ったく、うるさいな。さっき言ったとおりだ。しっかりやるさ」
自己申告によると、カイリは十五歳。小柄で非力な少年にとっては荷が重いかもしれないが、やると決めたのは本人だ。
「よし、その意気だ」 
一理はカイリの背中をポンと優しく叩いた。良い面構えだ。覚悟が決まったらしい。不安に満ちていた幼い目が、今は爛々と光っている。
 カイリは馬に跨り、手綱の具合を確認した。
「一雨、来そうだな」
善がやってきて、そう呟いた。善は一新を抱えると、カイリの後ろに乗せてから布で覆い、二人の体を紐で固く括り付けた。
「苦しくねぇか?」
カイリは小さく頷いた。背中の重みを確かめてから目を閉じ、一新の呼吸に耳を傾ける。その音はカイリの耳には届かなかったが、かすかな鼓動が背中から伝わってくる気がした。
「カイリ、腕と肩を回せ」
そう言うと、善は腕を伸ばし、ぐるぐると回して見せた。言われたとおりに真似ると、
「いいぞ、血流が良くなってきた」
と言って、善は目を細めた。
「おまえなら大丈夫だ。安心して行けよ」
善の言葉はすぅっと心に染み入ってくるから不思議だ。
「あぁ、まかせとけ」
カイリは先ほどよりは寛いだ様子で笑顔を見せた。

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