四、急旋回(3)

文字数 2,978文字

 同じ頃、取り残されたカイリは鬼の形相で善と仁を睨んでいた。
「そう睨むなよ。おまえも馬も、ちゃんと連れて行ってやるから」
善は苦笑した。まったく、一理の奴。せっかちにもほどがある。
「後は任せたぜ」
そう言い残して行った一理の姿はとっくに空の彼方だ。これ見よがしに溜息をつくと、仁は一新を抱えて、カイリの方を向いた。途端にカイリの表情が凍てつく。
「俺はいやだぞ!お前とは行かねぇからな!」
一歩、二歩と後ずさるカイリに、じりじりと仁が近づいてくる。
(こいつはだめだ!こいつはやばい!この男が一番、やばいんだよ!)
仁の左腕がカイリを拘束した。
「やめろ!離せ!」
身を捩って抗うも、仁の前では何の意味も成さない。次の瞬間、カイリの体は遥か上空にあった。だがすぐさま急下降し、山が襲いかかってくる。
「ぎゃああああああ!」
至近距離から発せられた悲鳴に仁は顔を大きく歪めた。
「ぶっ!」
口の中にボロ切れを突っ込まれる。
「んーーー!」
足をばたつかせると、「黙ってろ」と言われてしまった。
(この人でなしー!)
 超高速で三人は木々の上空を駆け抜けた。カイリは目を固く閉じたまま、顔をいたぶってくる風に堪えた。少しでも目を開ければ埃や砂が眼球を傷つけようとして襲いかかってくる。口にねじ入れられた布を吐き出したいが、凄まじい風力に押されていては到底無理だ。
(こいつ、殺す気か?一理の方がまだましだったぞ!ぐおおおおおおお!)
空しい心の叫びが仁に届くことはなかった。目と口を閉じているだけで精一杯だ。仁はそんなカイリを一切気遣うことなく飛び続けた。
「見つけた」
ぼそっと呟かれた言葉は風に消し飛ばされた。仁は体を翻すと、近くにあった幹を蹴り、そのまま急降下した。

 動きが止まった。恐る恐る目を開けると、遥か下方に川がある。辺りを見渡すと、景色が真っ二に分かれているではないか。視線を左から右へ動かしてからようやく、自分が断崖絶壁の淵に立っていることを理解した。
「んーーー!」
乾いた声が布切れの隙間から漏れた。そして、強烈な眩暈に襲われた。
(だめだ、こいつらは疫病神だ。一緒にいたら死んじまう)
人生の行く末を真剣に憂えていると、一理が巴慧を抱えてやって来た。
「この下か?」
「あぁ、あの辺りに洞穴がある」
仁が指し示す方を確認すると、「よし」と一理は満足そうに頷いた。ちらっと目線を動かし、カイリの顔を覗き込む。
「おいおい、どうした?この世の終わりみてぇな顔してるぞ」
この世の終わりだから、そういう顔してるんだよ。そう思ったが、声を出す元気はない。
「おいカイリ、こんなことでちびってんなよ」
一理の乾いた笑い声が遠くに聞こえる。
(ちびってはない。いや、ちびってるかも。もう、どうでもいいや)
そう思った瞬間、仁が崖の斜面を蹴った。下から突き上げる風圧に押し上げられて、着物が顔を覆う。あぁ、もはやこれまでか。短い人生だったぜと、走馬灯のようなものがカイリの脳裏を巡った。
 崖の上では一理と巴慧が対照的な表情を浮かべていた。
「おいおい、ちったぁ手加減してやれよ」
一方はケラケラと笑い、もう一方は戦慄している。
「カイリ!一新!」
電光石火のように落ちていった三人の方へ手を伸ばし、巴慧は悲鳴を上げた。
「あいつ、ほんっとに容赦ねぇな。大丈夫だよ。もう下へ着く頃だ。ほら、着いた」
耳を澄ませるが、下の様子は伝わってこない。
「ところで、俺たちも今から下へ降りて行くけど、姫さんは大丈夫か?」
ひゅっと背筋が凍った。ぶるぶると首を横に振っていると、
「ゆっくり行ってやるから、目を瞑ってな」
と言って、目を手で覆われた。
 そっと目を開けると、巴慧は崖下の川沿いにいた。空を見上げると遥か高みに、つい先ほどまで立っていた崖の淵が見える。まるで夢を見ているようだ。
「あーあー、気ぃ失ってんじゃねぇか」
一理が可笑しそうに笑った。我に返り顔を横へ向けると、仁の腕の中でカイリがぐったりと力尽きている。
「だらしない」
ぼそっと仁が呟いた。巴慧は慌ててカイリの顔を覗き込んだ。青白い顔が砂埃で汚れている。ここに来るまでに、どれほどの気力と体力を消耗したことだろう。神経の糸が切れてしまうまで、ずっと張り詰めて…。巴慧はカイリの小さな頬の汚れを袖で拭い取った。
「どうだ、姫さん。いくらなんでも、ここまでは下りてこれねぇだろ?ガキどもを休ませるのにはもってこいだぜ」
仁が二人を抱えたまま無言で歩き出した。慌てて追いかけると、切り立った岩壁の一角にある小さな洞穴の前で立ち止まった。
「ちょっと見てくるわ」
そう言って、まずは一理が中へ入って行った。しばらくすると、
「大丈夫だ!入って来ていいぞー!」
と呼ぶ声が聞こえてきた。躊躇なく入っていく仁の後ろを注意深く進んでいくと、そこには奥行きのある広い空間があった。
「しばらくここで潜んで、次の計画を考えようぜ」
巴慧は頷いた。同時に安堵の溜息が口から洩れそうになるのを寸でのところで止めた。一度でも大きく息を吐けば、緊張の糸が切れてしまうかもしれない。
「一理さん、馬はどうなりますか?」
「大丈夫だ。音を聞きつけて、そのうちやって来る」
音を聞きつける?到底信じられない話だが、今なら信じられるから不思議だ。この三人は常人ではないのだ。
 しばらくすると、一理の言葉通りに善が二頭の馬を引き連れてやって来た。
「おう、来たか」
器用に馬を誘導しながら入ってくると、
「良い隠れ場所を見つけたじゃねぇか」
と、善は洞窟内を見回しながら言った。巴慧は嬉しそうに琉星の体に抱きついた。よかった。頬ずりをすると、それに応えるように流星はぴくぴくと鼻を動かした。
「ありがとうございました。この子たちを連れて来てくださって」
感極まって礼を言うと、善はにっこりと微笑み、良い馬だなと言った。鋭い印象を与える大きな目が笑うと細くなり、緩やかな弧を描いた。なんてきれいに笑う人だろう。灰色の目がとてもきれいだ。
 琉星の鞍に括り付けてあった荷物を解くと、巴慧は一新とカイリの元へ歩み寄った。カイリの息遣いは安定している。問題は一新だ。口元に耳を当てると、息をしているのかどうか判別がつかないほど呼吸が浅い。水筒を口に含ませると、喉が小さく動いた。巴慧はほっと胸を撫で下ろした。善が隣に膝をつき、じっと一新の様子を窺った。
「だいぶ弱ってんな。血流も悪い」
真剣な顔で一新を見る善の表情を巴慧は不安そうに見守った。
「だが、相変わらず胸の音は安定してる。じきに目を覚ますと思うぜ」
「じきにって、どれぐらいですか?」
「そうだなぁ、あと一日か二日・・・。明日の夜、遅くとも明後日の早朝までには目を覚ますはずだ」
「それまで、飲まず食わずで大丈夫なのでしょうか」
「それは問題ない。大丈夫だ」
善は立ち上がると、唐突に「腹、減ってねぇか?」と訊いた。
「いえ、私は大丈夫です。果物が少しあるので、よかったら食べますか?」
「いや、それは嬢ちゃんが食いな。俺はちょっと様子を見がてら食いもんを探してくる。腹が減っては戦が出来ねぇからな」
そう言って穏やかに微笑むと、善は歩き出した。
「あぁ、分かってる」
一理が唐突に発した言葉は巴慧の耳にも伝わったが、何の話をしているかは分からなかった。善は片手を上げると出て行ってしまった。仁も無言で立ち上がり、それに続いた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み