二、はちきれる鼓動

文字数 2,779文字

 前方に見える鮮やかな新緑が風に乗って消えていく。動いているのは自分なのに、景色の方が後方へ移動していくみたいだ。
 ただひたすらに前を見据えて進んで来たカイリは、そんな錯覚を覚えていた。前傾姿勢で走り続けたせいか、目が回っている。それもそのはずだ。速度を緩めることなく、ただがむしゃらに、これほどの距離を駆けたことは一度もなかった。すでにあちこちの筋肉が悲鳴を上げ始めている。なめらかなはずの曲り道ですら、気を引き締めていなければ振り落とされそうだ。カイリは手綱を握り直した。
(巴慧ちゃんに追いつくのは、まだまだ先かな)
そう思いながらも、もう追いつけないのではないかという不安が心の中を渦巻いている。夜が明ける少し前に出発した巴慧と、日の出から一刻あまりが経過してから出発した自分。はたして追いつけるだろうか。いくら巴慧と一新の二人を乗せているとは言え、あの馬は普通の馬ではない。すでにかなりの距離を進んでいるに違いない。そう、何も起きていなければ・・・。
「あーもー、やめろ!どっか行け!」
次から次へと湧いてくる悪い想像を手で追い払う。追いつけるだろうかという不安なら、まだいい。目的地である新原まで行って探せば、なんとか見つけ出せるかもしれない。けれど、もし軍に捕まっていたら・・・。そう思うと冷や汗が吹き出し、手足が氷にように冷たくなる。
(頼むから、無事でいてくれよ)
強く噛んだ下唇が切れて、血の味が口の中に広がった。そのときふと、胸がざわついた。
―おかしい、なにかが。
手綱を握る手を少し緩めた。上体を起こし、左右を見る。青々と生い茂る木々と、雲一つなく晴れ渡った空が美しい。近くに鳥の囀りが聞こえる。俗世から完全に切り離された山域には、雑音が一切ない。あるのは、自然が奏でる心地良い音だけだ。
 だが、この不自然な静寂は言いようのない違和感をカイリに与えた。静かすぎる。そういえば、しばらく人の姿を見ていない。いや、待てよ。そもそも、この山に入ってから、人とすれ違ったか?一台の荷車も目にしたか?
(なんで、誰もいないんだ?さっきから、俺一人じゃねぇか)
比永の街から出ること自体が稀であるカイリは数少ない記憶を探った。やっぱり、おかしい。この道は一度だけ通ったことがある。そのときは、もっと行き来する人がいたはずだ。
 ざわざわと風が木々を揺らした。おかしい。何かがおかしい。言いようのない違和感に胸がざわめき、ぴりぴりと肌が異変を感じ取った。そして、後ろを見た。
 突風が吹き、木の葉が散った。
「走れ!もっと早く、走れ!」
カイリは叫んだ。地鳴りのような音が近づいてくる。馬は激しくいななくと、全力で加速した。
「急げ!」
息が乱れる。本能が、逃げろと必死に訴える。振り落とされないように全身に力を入れたまま、再び後ろを見た。
 その瞬間、曲がり角の向こうから、それは一斉に姿を現した。
「うわぁー!」
体格の良い馬が大波のように押し寄せてくる。カイリは必死に逃げ惑った。逃げなければ飲み込まれる!極端な前傾姿勢を取り、必死に逃げ惑った。
 馬に乗った男たちはぐんぐんと距離を縮めると、瞬く間にカイリに並んだ。追いつかれた恐怖に思わず叫ぶ。しかし、その悲鳴は十頭を超える馬の足音に一瞬の内にかき消された。恐る恐る顔を右へ向けると、自分の馬より一回りも二回りも大きな馬の姿に視界が埋め尽くされた。見上げると、その背に負けずとも劣らぬ体格の男が乗っている。
(兵士だ!)
一目瞭然だった。体を硬くして、ぎゅっと目を瞑った。しかし、捕まることを覚悟していたカイリを余所目に、兵士たちは前進し続けた。
(え?ちょっと待て)
カイリは訳が分からなかった。
(俺を捕まえるんじゃないのか?)
八朔から軍がやってくるという話を聞いていたカイリは、兵士が迫って来るのを見ると、当然のように自分が捕まるものだと思い込んだ。巴慧をかくまっていた自分が追われているのだと。
(なんで、止まんねぇんだ?)
十頭以上の馬が追い越していくのを横目で見ていたカイリはハッと我に返ると、悲痛な表情を浮かべた。
(まさか、嘘だろ?)
喉がひゅっと詰まった。激しい蹄の音を轟かせながら遠ざかっていく兵士たちを呆然としながら眺めていたが、すぐさま血相を変えると、
「ちょっと待てー!」
と、カイリは力の限り叫んだ。だが、兵士たちはカイリには目もくれずに先を急いでいる。
(うそだろ!そんな、俺のせいで!)
そう思うと、胸が張り裂けそうになった。
(食い止めるんだ!これ以上、行かせてたまるか!)
カイリは最後尾の馬をめがけて加速し、突進した。

「待ちやがれ!」
 後方から発せられた怒声を聞いた荒人は速度を維持したまま振り向いた。少年が南へ向けて出発するのを佳水とともに厩舎の近くから見ていた荒人は、兵士に誘導されながらここまでやって来た。叫びながら追ってくる少年を見ると、「邪魔をするな!」と一喝した。
 巳玄軍は今、三鷹山を完全に包囲している。治平が上げた狼煙を確認した山岳兵隊が兵士を二手に分け、一方は山を取り囲み、もう一方は南に通じる道を封鎖した。決して逃しはしない。馬を操る兵士たちの顔は気迫に満ちている。だが、荒人には別の思いがあった。叶うなら、兵士によってではなく、この手で自ら巴慧を保護したい。屈強な兵士たちに取り囲まれれば、いくら気丈な巴慧でも怖い思いをするだろう。そんな思いは、させたくない。
「行かせてたまるかー!」
すぐ背後まで追いついてきた少年が手を伸ばし、馬のしっぽを掴もうとした。
「邪魔をするなと言っただろう!」
荒人は激昂した。三峰からもらった剣を抜くと、少年に刃を向けた。それを見た少年はびくっと体を強張らせて、ぐらりと体勢を崩した。

落ちる!

カイリはぎゅっと目を瞑った。身体が馬から離れて落ちていく感覚が全身を襲う。だが次の瞬間、身体がふわりと浮き上がった。
(・・・あれ?)
激しく地面にぶつかることを覚悟していたのに、衝撃が一切ない。風を感じて片目を開けると、兵士たちが真下にいるのが見えた。
「なんだー?」
カイリの体は地上の遥か上にあった。慌てふためきながら手足をばたつかせると、なにやら鋼のような物体に肘がぶつかった。顔を横へ向けると、すぐ目の前に眼帯をした男がいる。
「なんだ?おまえ」
何が起きているのかさっぱり分からない。口をあんぐりと開けていると、男は大樹の枝に飛び移った。
「なんだおまえ!何がどうなってんだ?」
再び問うと、男は無言のまま下方を指差した。眼帯に覆われた横顔から視線を僅かに動かすと、木々の隙間から黒い影がびゅんっと飛び出して来るのが見えた。ほぼ同時に反対側からも黒い影が現れる。きょろきょろと左右を見比べるが、もう何も見えない。慌てて下を見ると、二人の男が兵士の頭上へ覆い被さるように下降していた。


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