三、予期せぬ来訪者(3)

文字数 2,630文字

 医者に別れを告げた荒人は、先を急ぐ佳水を追いかけた。
「おい、佳水、どこへ行く?」
「しっ、大きな声を出さないでください。今から川沿いにある地区へ行きます」
「川沿いにある地区?」
「はい。そこへ行かれた可能性が高いです」
「まさか老街か?そんなところへ行くわけがないだろう」
行ったことはないが、比永で唯一の貧民街のことは知っている。聞けば、ごみと瓦礫が散乱する「野良犬と烏とウジ虫の巣窟」だとか。
「老街ではありません。さらにその奥、老湾です」
「老湾?なんだそれは」
「そういう場所があるのですよ。老街の、さらに奥深くに」
「そんな話は聞いたことがない」
「それはそうでしょうね。知っている者の方が少ないのですから」
こいつはいったい何を言っているんだ?荒人はあからさまに顔を顰めた。
「どういうことだ?説明してくれ」
佳水は手短に老湾について説明した。話を聞いた荒人は、「そんな話が信じられるか」と言った。老街の住民はおろか、屈強な憲兵ですら近づけない闇の街だと?そんなものが比永に存在するはずはない。佳水のやつ、気でも触れたか。
「信じる、信じないの問題ではありません。すぐに分かりますよ」
「ちょっと待ってくれ。わけがわからない」
「待つ時間はありません。今からそこへ行くのです。急いでください」
「そこへ行くって、本気か?目的は?」
「巴慧様を探すために決まっているでしょう」
「そんなところに巴慧がいるって言うのか?」
「ですから、先ほどからそう申しているでしょう?そこへ行った可能性が高いと」
「ふざけている場合か!万が一、そんな場所が実在したとして、巴慧が知っているわけがないだろう」
佳水は何も言わずに前を向いている。
「おい、戻るぞ!戻って街中で聞き込みをする!」
「それは兵士たちに任せましょう。どうせ明朝にはやってきます。私たちより、よほど徹底的にやってくれますよ」
「それはそうかもしれないが」
「先ほどの医者ですが、まず間違いなく、この数日以内に巴慧様と会っています。根拠は色々とありますが、まぁ、詳しい説明は省きましょう。ですが、おかげで巴慧様がこの街にいるという確信を得ることができました。となると、老湾にある質屋へ行った可能性が高い」
巴慧が質屋へ行くであろうことは荒人も予想していた。ろくな準備もせずに突発的に出て行ったのなら、とりあえず部屋にある物、つまり高価な着物や装飾品を持って行ったはずだ。だが、そういった物は旅をする上では何の役にも立たない。持って行ったからには換金するつもりだろう。
「質屋へ行くのは分かるが、なぜわざわざ、その悪の巣窟とやらへ行くんだ」
「街中の質屋では盗品でないことを確認するために、持ち込まれた物の出所を調べるのですよ。そんなところへ持って行けば、すぐに足がつきます。盗品であろうが、売買を禁じられた物であろうが、見境なく取引に応じてくれる店でなくてはならないのです。そして、そういう店は、私が知る限り一軒しかありません」
「待て待て。比永の人間でもないおまえが、なぜそのような店を知っている?」
まさか、行ったことがあるのか?
「荒人様が那祁家にいらっしゃる間、この街について色々調べました」
涼しい顔で言う佳水を荒人はまじまじと見つめた。那祁家にいたのは、たったの一日ではないか。
「十四歳という助手見習いの居場所が分かれば話は早いのですが、あの医者は決して口を割らないでしょうし、今できる最善は老湾の質屋へ行くことです」
荒人は首を横に振った。
「いいか、佳水。私は今まで一度もその地区について聞いたことはない。比永の地図にも、どの文献にも載っていない。おまえもさっき、知っている者の方が少ないと言ったではないか。どうやって、巴慧がその店に辿り着くというんだ」
「巴慧様は、とても好奇心が旺盛な方だとお聞きしておりますが」
「それはそうだが」
「そんな方が、大人しく比永の中心部だけで満足していたと思いますか?比永の住人よりも比永に詳しいかもしれませんよ。老湾に繋がりのある友人がいないと言い切れますか?」
「いや、だがしかし」
「若い娘が、滅多にお目にかかれないような高級品を質屋に持ち込んだという報告がありましたか?」
もしあれば、憲兵が把握しているはずだ。
「それは・・・」
「さぁ、まいりますよ」
納得がいったような、いかないような・・・。釈然としないまま、荒人はしぶしぶと佳水について行った。
 
 夜が深まれば深まるほどに、老湾は異様な熱気に包まれていた。中心部は大いに賑わい、他所では決して目にすることのないような出で立ちの輩が大通りを歩き、そこら中に噛み捨てられた紙煙草の残骸が散乱している。
 荒人は遠い異国へ放り出されたかのように、その場に立ち尽くした。ここへ至るまでの道のりもとんでもなかったが、街に足を踏み入れた瞬間に、それまでの驚きは一気に吹き飛んだ。
「なんだ、ここは」
それ以上は言葉が続かなかった。ただただ目を見開き、呆然と街中を見回した。これは、まさに別世界だ。
「まさか本当に、比永の川沿いにこんなところがあったとは・・・」
「正確には川の向こう側ですけどね」
頼りない足取りで進む荒人とは対照的に、佳水はまるで訪れたことがあるかのように颯爽と歩いている。すでに構図が頭の中に入っているかのようだ。
 びしびしと投げつけられる視線を全身に感じながら、一際目立つ建物の扉を叩いた。すると、門番らしき人相の悪い男が戸の隙間から顔を覗かせた。
「お邪魔致します」
男に制止する暇も与えずに中へ入ると、佳水はそのまま通路の奥にある部屋まで一気に歩を進めた。そして、扉を押し開けた。
 煙が噴き出す室内は男たちでごった返していた。目を細めて中を見ると、皆、卓上に熱い視線を注いでいる。明らかに場違いな男が扉を開けても、気に留める者はひとりもいない。佳水はひるむことなく室内へ入って行った。仕方なく荒人も続く。
(なんだなんだ?昼間の嬢ちゃんと言い、今日は珍しい客が多いな)
奥の席で酒を飲んでいた男は、向かってくる二人の男に気付くと、煙をゆっくりと吐き出しながら苦笑した。まだ若いが、役人か、それとも高官か。
(どちらにせよ、お偉いさんに違いねぇ)
背筋をぴんと伸ばし、洗練された歩き方で真っ直ぐ近づいてくる姿を見ると、虫唾が走った。こういう、絵に描いたような気品あふれる貴族様が一番嫌いなんだ。男の殺気を敏感に感じ取った同席者たちも視線を動かし、険しい顔で二人を睨みつけた。
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