五、策士、始動(3)

文字数 2,580文字

「いつ頃くるって言ってた?」
「明朝にはやって来ると言っていました」
「明朝か・・・。ってことは、もう来てる可能性があるわけか」
ゴキは髭に覆われた顔半分を手で撫でた。
「嬢ちゃんはどこへ向かった?」
「南の方だよ」
「それはまだ、ばれちゃいねぇんだろ?」
「さすがにそこまでは・・・。まだだと思います」
カイリはゴキの顔をじっと窺った。
「どうするつもり?」
ゴキはにやっと笑うと、
「ちょいと足止めしてやろうか。時間稼ぎぐれぇはできんだろ。嬢ちゃんが遠くへ逃げられるよう手伝ってやるんだよ」
どうやって?そう質問しようとしたカイリを見下ろしながら、ゴキは高圧的に言った。
「カイリ、おまえはじっとしとけよ。余計なことすんじゃねぇぞ。ちょこまか動かれちゃ、本気で目障りだからな」
カイリは口をへの字に曲げた。どいつもこいつも同じことばっかり。うんざりしながら、「分かってるよ!」と言って舌を出すと、「おいこら、これは遊びじゃねぇんだぞ。マジで分かってんだろうな」と、ゴキの声が凄みを増した。
「なんだよ。いつもいばってるくせに、おまえだって軍が怖いんじゃねぇか」
「あたりめぇだろ。誰が軍と仲良くしてぇ奴がいるんだよ」
老湾を牛耳り、他国の裏社会とも精通しているゴキですら巳玄軍の力は恐れるものだった。甘く見てはいけない。軍の逆鱗に触れれば、老湾に未来はない。
「分かったよ。何もしない」
ゴキの迫力に気圧されたカイリは肩を落とした。
「先生も当分の間、ここへは来ないほうが良い。しばらくは監視されてると思って、慎重に行動しろよ」
「わかりました」
「ほら、護身用に持っときな」
ゴキは懐から短刀を取り出すと八朔に手渡した。刀とは無縁の人生を送ってきた八朔は戸惑いを見せたが、ぐっと力強く持ち直すと、「ありがとうございます」と礼を言い、覚悟を決めた表情で頷いた。
「ところで、老湾とはいったい何ですか?」
八朔が尋ねると、「先生は知る必要のねぇことだ」と苦笑交じりに答えてから、ゴキは小屋を出て行った。カイリとミトの顔を見ると、ふたりとも知らんぷりしている。八朔はやれやれと肩をすくめた。


 日の出から半刻が過ぎた頃、街から一里ほど離れた平地に兵士が続々と集まってきた。平地と言っても山間にある荒地で、比永と地方都市を結ぶ本道からは離れている。農地から見ても死角に入っており、大勢が一度に会しても見られることはない。
 そんな人っ子一人いないはずの地に召集された兵の数はおよそ三万。本部から派遣された兵だけでなく、近辺を警備する歩兵も含まれている。そして、この大部隊の指揮を執るのは槍兵隊長の治平(じへい)である。
 夜明けと共にやってきた治平は、すでに到着していた荒人と佳水を見つけると大股で近づいてきて、こう説明した。
「巴慧様の件は私が一任されました。槍兵隊と山岳兵隊が捜索に当たります。すでにご存じの通り、他の二隊は別の任務に就いております」
承知していると荒人が頷いた。簡単な挨拶を述べると、佳水は集結した兵士を見回した。
(すごい数だな。まさか、ここまでとは・・・)
たったひとりの娘を見つけるために、これだけの兵力が注ぎ込まれたことがかつてあっただろうか。まるで戦である。一刻も早く見つけ出したいという強い意志の表れだが、常軌を逸している。本来は大々的な捜索は避け、追跡を得意とする部隊のみが従事すべき事案のはずだが、この数はどうだ。
―昨夜、駐屯地で聞いた突拍子もない話・・・。
章桂(しょうけい)という男によれば、恐ろしい化け物も行方知らずとなり、同時に捜索を行うために四つの精鋭部隊までもが出動させられている。よりにもよって捜索対象が「化け物」とは、兵士たちに同情するほかない。
「隊長、ただいま戻りました」
治平の部下が大きな包みを抱えてやって来た。ご苦労、と言うと、治平は包みを広げて中身を確認した。よしっと頷くと、それらを配るよう命じた。
 佳水は治平が従えている兵士を観察した。皆、屈強な体躯に恵まれていて、一目で歩兵ではないと分かるが、何よりも目を引くのはその面構えだ。街中でぶつかろうものなら、その顔を見上げた途端に大抵の者は震え上がるに違いない。ふと視線を向けると、荒人もじっと兵士たちを見ている。叔父が軍の総司令官とはいえ、実際に槍兵隊を近くから見るのは初めてのはずだ。
「佳水様、よろしいでしょうか」
突如として背後から囁かれた声に、荒人は飛び上がりそうになった。振り向くと、小柄な男が茂みに身を隠すようにして跪いている。初めて見る男の風貌に荒人は眉をひそめた。全身を黒い装束で覆い隠し、顔の下半分も布で覆われている。声を聞くまでは足音どころか、一切の気配を感じなかった。ぶすりと背後から刺されれば、声すら出せないまま絶命するだろう。そんな想像がよぎり、荒人はぞっとした顔で男を見下ろした。
 男は何かをすっと佳水に渡した。それを指先で広げて中身を確認すると、佳水は満足そうに頷いた。荒人は体を硬直させたまま、二人を凝視していた。
 男は何も言わずに立ち上がると、一切の足音を立てずに去っていった。その存在に気づいた者はひとりもいなかった。
「誰だ、今の男は」
そう尋ねると、佳水は軽やかな口調で、「古い知人ですよ」と言った。
「古い知人?」
「そうですよ」
詳しく話せと言ったが、佳水は穏やかに微笑むばかりで、それ以上は話そうとしなかった。
「そろそろ行きますよ」
そう言うと、佳水は歩き出した。またろくな説明もせずに動く気らしい。
「おい、勝手な行動は慎めよ」
「勝手な行動ではありませんよ。相手に動きがあったので、我々も動くだけです」
すたすたと槍兵隊の元へ歩いて行くと、佳水は治平に何やら耳打ちした。治平は頷くと、ひとりの部下を呼んだ。佳水はその部下とも言葉を交わすと、荒人のところへ戻ってきた。
「どうしたんです?そんな仏頂面をして」
「相手に動きがあったとは、どういうことだ?」
「直に分かりますよ」
 兵士が馬を引いてきた。佳水は軽やかに乗馬すると、「早く行きますよ」と言って荒人を見下ろした。荒人も馬の背に乗り、手綱を握った。
 馬を走らせながらふと振り返ると、先ほどまでいた場所に白い花が落ちている。いったい、どこから・・・。風とともに花の香が漂ってきた気がして、なぜか心がざわついた。荒人は花から目を逸らし、前を行く佳水の背中を眺めた。
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