三、迫られる選択(4)

文字数 2,091文字

 細心の注意を払いながら、足場の悪い山路をゆっくりと進んでいた巴慧は顔を上げた。不安そうな顔できょろきょろと辺りを窺う。遠くから誰かの声が聞こえたような気がするが、気のせいだろうか。
 すでにびっしょりと濡れた背筋を冷汗が伝った。琉星の逞しい首の後ろで息を整えてから、腰に巻きつけた布の結び目を握りしめた。
―まただ。また、声が聞こえる。
巴慧は手綱を手前に引っ張り、左へ方向転換した。枝葉を掻き分けながら日の光の届かないところへ入って行くと、琉星の巨躯がすっぽり隠れるほどの大樹を見つけた。根本まで行き、影に隠れる。そして気配を押し殺し、耳をすませた。
―近い。
その声は先ほどよりも近くに聞こえる。巴慧は強い不安感に襲われた。
「一新、大丈夫よ。あなたは私が守ってあげるから」
己を励ますように言った。背中にのしかかる重みが増したように感じる。巴慧は天に祈りながら、一新の手を握った。
 ざわざわと葉が擦れる音が近づき、不穏な空気が漂った。巴慧はぎゅっと目を閉じ、琉星のたてがみに額を当てた。
(お願い、見つかりませんように)
そう念じながら息を潜める。
 バサバサッという音とともに、上空から何かが降ってきた。巴慧は身構えた。射落とされた鳥だろうか。雷のように落下した何かが風を起こし、砂塵を吹き上げた。
「巴慧ちゃん!」
期せずして名を呼ばれた巴慧は目を見開いた。口をぽかんと開けたまま、恐る恐る振り返る。
「巴慧ちゃん!よかった、無事だ!」
頭が真っ白になった。その声が幼いころからよく知っている声だと気づくまで、いくらかの時を要した。
「・・・カイリ?」
「そうだよ、カイリだよ。本物だよ。幽霊じゃないぜ!」
このあどけなさの残る声は、まぎれもなくカイリのものだ。弾ける笑顔で走ってくるカイリの姿を目にした巴慧は声を震わせた。
「カイリ!どうしてここに?」
これは、夢だろうか。
「びっくりしただろ?」
カイリはすぐ傍まで駆け寄ってくると、晴れやかな笑顔で巴慧を見上げた。
「追ってきたんだよ、巴慧ちゃんを」
巴慧は親を見つけた迷子のように顔をくしゃくしゃにした。そして、顔を両手で覆った。緊張の糸が切れて、一気に感情が吹き出してくる。カイリの真っ白な歯が眩しい。
 巴慧は馬から降りようとしたが、背中に一新がいることを忘れていたために大きく体勢を崩した。
「うわあ!」
咄嗟にカイリが二人を支えようとするが、力及ばずに三人はもつれ合いながら転倒した。
「いててて」
苦労しながら上体を起こすと、ふたりは顔を見合わせた。そして、泡が弾けたように笑い始めた。
 しばしの間、ふたりは再会を喜び合った。しかし、ハッと我に返ると、巴慧はカイリの腕を掴み、
「カイリ、お願い、一新を診て!ずっとぐったりしたまま動かないの」
と懇願した。巴慧にばかり意識が向いていたカイリは言われて初めて、馬から落ちたままぴくりとも動かずにいる一新に目を向けた。
「なに、どうしたの?こいつ」
「わからないの。急にぐったりして、そのまま意識がないの」
巴慧はこみ上げてくる涙を必死に堪えた。
「ちょっと待って」
腰に巻いていた布の結び目を解くと、一新の体がぐにゃりと落ちてきた。慌てて両手で受け止めると、カイリはゆっくりと意識のない体を地面に横たわらせた。口元に耳を近づけて、呼吸を確かめる。
「だいぶ弱ってるね。今朝までは元気だったのに、何があったの?」
脈診を行うカイリを不安そうに見守りながら、巴慧は答えた。
「出発してからしばらくは元気だったの。途中で休憩したときも、ミトさんからもらったお弁当を一緒に食べて、顔色も良かった。でも、しばらく走っていたら、急に背中に重みを感じて、見たらぐったりしてて、名前を呼んでも反応がなくて・・・」
話すうちに目に大粒の涙が溜まった。我慢できずに零れ落ちた一筋の涙を手で拭いながら、巴慧はしどろもどろにこれまでの旅路を語った。

 一新が気を失っているのを確認すると、巴慧は悩んだ末に馬を方向転換させた。三鷹山を越えたところに村があるが、医師がいる確証がない以上は八朔の元へ連れて行くしかない。
 そう思い、比永の方へ戻りながらふと西の方向を見渡すと、田園をかき分けるようにして移動している何かが目に留まった。目を凝らしてその正体を確認すると、巴慧は咄嗟に近くの物陰に隠れた。
―兵士だ!
そう思った途端に、どくどくと鼓動が打ち始めた。兵士が馬で駆けている姿は決して珍しくはない。各地にある駐屯地へ向けて出発する兵士はいくらでもいる。だが、つい今しがた目撃した兵士からは、何か不穏なものを感じた。逃げろ、近づくなと、頭の中で警鐘が鳴り響いている。
 だが、事態は急を要す。一新の手に触れると、また体温が下がっている。迷っている場合ではない。最重要事項は一新を医者に見せること。意を決して家を出たが、そんなものは取るに足りない。一新の命の方が、ずっと大事なのだから。一新を助けられるのは、私しかいないのだから・・・。 
(急がなくちゃ!早く、八朔先生のところへ)
深呼吸を繰り返してから、巴慧はまた山道へ戻った。そして、比永へ向けて必死に馬を走らせた。
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