三、迫られる選択(5)

文字数 2,146文字

 しばらく進むと、ふと背中の重みが軽くなった。ハッとして振り返ると、一新がうっすらと目を開けている。
「一新!起きたの?大丈夫?」
速度を緩めて顔色を確認する。
「今から八朔先生のところに行くからね。もう少しがんばって!」
一新はまた背中に体を預けてきた。よかった、目を開けてくれた。
「大丈夫よ、すぐに良くなるから!」
そう繰り返しながら、ひたすらに山道を駆け下りた。
 だが、山麓付近へやって来た頃、一新は突然に背後から手を伸ばし、手綱を奪い取った。そして、強引に馬を停止させた。思いのほか強い力で引っ張られた琉星は前脚を高く上げ、体勢を崩した二人は落馬した。混乱しながら一新を見ると、首を激しく左右に振っている。
「どうしたの?どこか痛むの?」
何を訊いても首を振るばかりで埒が明かない。
「八朔先生のところへ行って、もう一度しっかり体を診てもらおう?」
説得を試みたが、一新は頑なに首を振り続けている。何故、これほど嫌がるのだろう。不思議に思っていると、ふと、一新が視線を泳がせた。
「ああ、あああ」
目が大きく見開き、開いた口から呻き声が漏れた。視線の先を辿ると、兵士の一団が平野を猛然と駆けているのが遠目に見える。
「あああああ!」
呻き声が大きくなった。痩せ細った体が強張り、瞳孔が開いている。手を伸ばして腕に触れると、一新はビクッと震えて、這うようにして逆方向へ逃げ出した。
「一新、待って!どうして逃げるの?」
慌てて追いかけて、腰にしがみついた。そして、そのまま二人は揉み合った。
「分かった!行かないから安心して!一新が行きたくないところには絶対に行かないから!」
何度も言い聞かせる内に、一新は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
(どうしたんだろう。兵士を見たから?)
一新が混乱状態に陥った理由がわからない。だが、明らかに兵士を恐れている。なぜ恐れているかは分からないが、怯えている以上は引き返すしかない。再び一新を馬に乗せると、巴慧は元来た道を引き返し、三鷹山を目指して再び山道を駆け上った。

「それで、一つ目の山を越えて、なんとかしてここまで来たんだけど、また途中で一新が意識を失ってしまったの」
 話を聞いていたカイリは胸を撫で下ろした。比永へ戻ろうとしていたと聞いたときは血の気が引いた。山を下りた途端に拘束される姿を想像するだけで背筋が凍る。思い留まってくれて、本当に良かった。
 少し離れたところから話を聞いていた一理は、どおりでなかなか姿を見せなかったはずだぜと思った。
「やっぱり、一新は連れてくるべきじゃなかった。比永にいた方が安全だったのに。ごめんね、カイリ。結局、みんなに迷惑をかけてしまった」
「そんなことないよ。大丈夫だよ」
カイリは優しく巴慧の震える肩に手を乗せた。
 黙って二人のやり取りを見守っていた一理がゆっくりと歩み寄り、一新を見下ろした。そのまましばらく凝視していたが、やがて目線を右後方へ動かし、到着したばかりの善と視線を合わせた。その少し後ろにある岩の上から、仁もじっと一新の様子を窺っている。一理は大きく息を吸い込むと、顎をぽりぽりと掻いた。
「ま、大丈夫だろ。こんな骨と皮だけでも、心臓の音は案外しっかりしてるぜ」
唐突に話し始めた一理を巴慧は驚いた表情で見上げた。
「あなたは?」
話すのに夢中で、近くに見知らぬ男が三人もいることに気が付かなかったらしい。
「俺は一理だ。カイリの恩人さ。な、カイリ?」
軽快に名乗ると、一理はしゃがんでカイリの肩に腕を回した。
「だれだ、おまえ。こんな変人、知らねぇよ。いや、野人?野猿か?」
とぼけた表情で言うと、すぐさま頬をつままれた。
「俺は医者じゃねぇが、鼓動や脈の音なら聞き分けられる。まぁ弱っちゃいるが、奥にある音は案外しっかりしてるぜ。今すぐどうにかなることはねぇと思う。だろ?善」
「あぁ。胸の音は安定してる」
善が近くへやってきて言った。巴慧は訝しげに二人の顔を見比べた。
「胸の音、ですか?」
訳がわからない。だが、カイリは真剣な眼差しを善に向けている。
「大きな病だと思うか?」
カイリが訊くと、善は即答した。
「いや、そういう類のものではない」
おどおどした視線を行ったり来たりさせていたが、巴慧は藁にも縋る思いで尋ねた。
「本当に大きな病気ではないんでしょうか。さっきから、呼んでも揺さぶっても起きないんです」
八朔も大きな病ではないと言っていた。だが、それなら何故、こんなにも頻繁に意識を失ってしまうのか・・・。
「早く、お医者さんのところへ連れて行ってあげたいのですが」
「医者なぁ。見せたところでどうなるもんでもなさそうだけど」
一理は腕を伸ばし、一新の首に手を当てた。
「熱もねぇし、脱水を起こしているわけでもない」
カイリを見ると、うんうんと頷いている。
「でも、どこか悪いなら、早く治療を受けさせてあげないと」
「治療っつってもなぁ。薬や針で治るもんでもなさそうだぜ」
巴慧はますます困惑した。首を傾げて一理の表情をじっと窺う。
「どっちにしろ、ここに長居するわけにはいかない」
善が静かな声で言った。
「その通り。このガキのことは一旦保留だ」
一理は立ち上がると、ぐぐぐっと背伸びをした。
「場所を変えるぞ」
そう言うと、一理は一新を担いで、すたすたと歩きだした。
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