一、追跡

文字数 2,725文字

 巴慧の失踪が明らかになった翌日の深夜、那祁家では不穏な足音が響いていた。黎明の部屋を飛び出し、一心不乱に廊下を走る荒人を佳水が追いかけている。頭に血が上った状態で、いったいどこへ行くというのか。気が逸るのは分かるが、考えなしに突っ走ってもろくなことにはならない。
「荒人様、お待ちください!どこへ向かうおつもりですか?」
背後から投げかけられる声など耳に入らないらしい。荒人は走る足をさらに加速させた。
「お待ちくださいと申しているのに、まったくもう!」
佳水は長い脚を生かし、ぐんぐんと駆けると、一気に荒人まで追いついた。
「冷静におなりなさい!貴方が飛び出して行ったところで、巴慧様は見つかりませんよ」
「放せ!私に構うな!」
まるで追い詰められた虎だ。荒人は凄まじい力で佳水の手を振りほどいた。
「いいえ、そうはいきません!」
しばらくの間、二人はもみ合った。ひと悶着の末に佳水は乱れた呼吸で荒人に問うた。
「どうするおつもりかを、お聞かせください」
「どうするつもりか?決まっているだろう!探しに行くのだ!早くしないと、遠くへ行ってしまう!」
「むやみやたらに動いても、無駄な労力を費やすだけでございます」
「探しに行くなと言うのか?おまえは来なくて良い!私ひとりで行く!放せ!」
「私も参ります!」
佳水の言葉に、荒人の動きが止まった。
「探しに行くなとは申しておりません。冷静に案を練るべきだと申し上げたいのです」
冷静に案を練るだと?そんな猶予はない。今まさに、夜道で襲われているかもしれない。荒人の目がカッと光った。口から溢れ出す荒人の言葉を遮って、佳水は早口で述べた。
「一昨日の夜に出て行かれたのなら、すでに丸二日が経過しております。ですが、まだ遠くへは行っていないはずです。馬番の者が気づかなかったのですから」
「より悪いではないか!馬がいれば、いざという時に逃げられる。身ひとつでは、どうしようもないだろう!」
若い娘がひとりでいれば、何が起きても不思議はない。ましてや、国司のひとり娘という素性が知れれば、どんな目に合うか。
「ぐずぐずしている暇はない!そこをどけ、佳水!」
「巳玄軍が捜索しております。軍が総出で捜索に当たっているのです。徒歩での移動なら、そう遠くへは行けません。見つかるのも時間の問題です」
「未だに見つかっていないではないか!おまえは巴慧を知らないのだ。巴慧なら、足だけで遠くへ行ける。近辺ばかりを捜索していてはだめだ!」
「かと言って、荒人様が無策に飛び出したところで状況は変わりません」
「では何もせず、ただ果報を待てと言うのか!」
「いいえ、軍と合流いたします。もし、この辺りで見つからなければ、早急に手を打たなければなりません」
佳水の言うとおりだ。この一帯の地理を掌握し、一糸乱れぬ連携が取れるのは軍をおいて他にない。その軍が虱潰しに探しているのだ。捜索は兵士に任せて、今は上層部と合流するのが最善であろうことは荒人にも理解できた。
「では、行くぞ!」
二人は全速力で馬を駆った。
 
 その頃、軍の長である鳥次(ちょうじ)は険しい顔で地図を睨んでいた。訓練場の入り口に設置された卓を囲み、夜風にさらされながら部下と話し合っていたが、地を蹴る蹄の音が近づいてくるのを聞くと、がばっと顔を上げた。
「叔父上!」
馬から下り、全速力で駆けてくる若者の顔を見ると、「これは驚いたな、荒人じゃないか」と言って、硬い表情を僅かばかりに緩めた。鳥次は姓を斎海(さいかい)と言い、荒人の父、啓史(けいし)とは異母兄弟にあたる。啓史が「壱の群」に郡司として赴いた頃に、鳥次は巳玄軍の総司令官に就任した。
「これは見違えたな。立派になった」
短い言葉をかけると、鳥次はすぐに厳しい顔つきに戻った。
「悪いが、再会を喜んでいる暇はない。おまえも、それで来たのだろう?」
来訪の目的を訊かずに鳥次は続けた。
「この一帯はくまなく探しているが、未だに見つかったという知らせはない。女子の足で、そう遠くへは行けぬはずだが」
「お初にお目にかかります。私、荒人様の付き人で、名を佳水と申すものでございます。以後、お見知りおきを」
一歩前に出て、佳水は鳥次に敬礼した。如何なるときも礼儀を重んじる佳水らしい行いである。
「ああ、君が佳水君か。噂はよく聞いている」
「恐れ入ります。早速ですが、お尋ね致します。捜索の手はどの辺りまで及んでいますか?」
「この一帯すべてだ。近隣の農村は特に念入りに調べさせている」
那祁家の近隣にはいくつかの集落がある。いずれも山を越えなければ辿り着けないが、そのいずれかに身を潜めている可能性が高いだろうと軍の幹部たちは考えていた。
「人里を目指すなら南へ向かったと考えるのが妥当だ。南部の山は標高も低いし、距離も短い。しかも、下山したすぐのところに農村がある」
太い人差し指が地図の上を動き、一点をこつこつと叩いた。
「この辺りを重点的に探すよう命じた。しかし、何者かが匿っている可能性が高い」
鳥次の表情は暗かった。それもそのはずである。国司の娘の失踪は、国の一大事だ。その事実が公になれば、国中が混乱に陥る可能性が高い。さらに言えば、その騒乱に付け込み、巳玄に対し良からぬことを画策する輩が出てくることも十分に考えられる。事態は切迫しているが、かといって大々的に捜索するわけにもいかず、状況は困難を極めていた。
「南西でございますか。ですが、この辺りの村へ逃げ込んだとは思えないのですが」
佳水の指摘に鳥次は反論した。
「では、北へ向かったと?南へ行くよりもはるかに山道は険しく、獣も多い。わざわざ危険な方へ行くとは考えにくい」
地図上に広がる地形に視線を落としながら佳水は考えた。鳥次が南へ向かったと考える理由は、東西南北どの方角へ向かうかによって、待ち構える状況が大きく異なってくるからだ。
「北は最も困難な道となる。巴慧様も本道を避けるなら、南へ行くしかあるまい」
獣という言葉を聞いた途端に荒人は苛々と爪を噛みだした。首都である比永や他の都市へ通じる本道には常時、憲兵が配置されている。夜中に娘がひとりで歩いていれば確実に保護される。人目を忍ぶなら山道を行くしかない。巴慧なら、危険を承知で山越えを選ぶだろう。
「では、北側の山は捜索していないのですか?」
「むろん、やっている。川や池に落ちたことも想定し、水の中まで、すべてだ」
荒人は身震いした。深い闇の中で川に流されたら、ひとたまりもない。悪い方、悪い方へ落ちていく思考を振り払おうと、荒人は激しく頭を振った。
「山中の捜索は山岳兵隊が中心となって行っている。しかし、夜間の捜索は容易ではない」
「街へは兵を赴けていないのですか?」
その場にいた全員が佳水に視線を向けた。
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