一、追跡(2)

文字数 2,562文字

「街とは、比永のことか?」
鳥次が問う。
「はい」
「比永へ行くには最も険しい山を越えなければなりません。登山に慣れた男でも骨が折れます。女子(おなご)の足で、ましてや夜間の峠越えとなると考えにくいかと」
鳥次の隣にいる男が意見を述べた。この面長で髭を蓄えた男は名を三峰(さんぽう)と言って、位は「司令官」、総司令官に次ぐ者である。体型は細身で、軍人というよりは文人のようだが、深い知性を感じさせる糸のような目の奥に垣間見える光は、何か獰猛なものを感じさせる。穏やかな声音と控えめな態度だが、やはり軍人だと思いながら佳水は続けた。
「しかし、近くの村へ逃げ込めば簡単に見つかってしまいます。巴慧様もその辺りは重々承知かと」
「では、下りるに下りられず、いまだ山中を彷徨っておられると?すでに丸二日が経ちます。食べるものもなく、おひとりで山にこもるのは不可能です」
山の中で食料を調達する方法はいくらでもあるが、三峰は巴慧が何もできない箱入り娘だと決めつけているようだ。三峰の言葉に続き、重い表情で鳥次が言った。
「山の危険性は理解しておられるはずだが、身を隠そうとするあまり山の奥深くへ迷い込んだ可能性は十分にある。一刻も早く、お救いせねば」
自然は甘くない。少しの間違いが命取りになる。この一帯の地理を巴慧は把握しているはずだが、人の方向感覚など当てにならない。奥深くへ侵入してしまえば、脱出は困難になる。
 重く沈んだ雰囲気が、さらに重くなった。各々が悪い方へ引っ張られていく想像を打ち消したい一心で、焚火に照らされる鳥次の顔を見た。その鳥次もまた、かつてないほど険しい表情をしている。その中で佳水だけが、冷静な面持ちで地図を眺めていた。
「やはり、巴慧様は比永の街へ向かったと思います」
ふたたび、そう述べた。
「繰り返し申し上げますが、そのためには山を越えねばなりません。日頃から鍛錬を積んでいる者でなければ不可能です」
やはり考えられぬと、三峰は首を横に振った。
「私もそう思っていたのですが、先程の荒人様の言葉を聞いて考えを改めました。巴慧様は幼いころから頻繁に比永へ通っていたと聞いております。家を出て、どこへ向かうべきかを考えたとき、慣れ親しんだところへ向かおうとなさるのではないでしょうか」
「確かに、巴慧様は比永へよく行っておられましたが、だからこそ避けるのではないですか。あの街には巴慧様と顔見知りの者が多くいるはずです。そんなところへ行けば、すぐに居場所が知れるでしょう」
「人が多ければ多いほど隠れ易くなります。手を貸すものがいれば尚更です。無謀にも飛び出して行った巴慧様が、誰にも頼らず、ひとりで逃げ切れるとは思えません」
それまで押し黙っていた荒人が口を開いた。
「私も同意見です。巴慧は普通の娘ではありません。幼いころから、そこら中を走り回っていました。もともと足腰が強いのです。巴慧なら山を越え、比永に辿り着けるかもしれません」
荒人と佳水の顔を交互に見てから、鳥次は言った。
「確かに、未だに見つかっていないことを踏まえれば、普通の女子と見なすべきではないのかもしれないな」
しばしの間、じっと地図を睨んでいたが、やがて鳥次は視線を上げた。そして、部下の顔を見回した。
「これより、捜索の範囲を広げる。夜が明けるまでは引き続き、この一帯と北の山々を重点的に捜索し、それでも見つからなければ、明朝に比永へ向けて出発する。治平(じへい)加那斗(かなと)にそう伝えよ」
早速、部下の一人が伝令を出すために出立した。
 
 それと同時に馬の駆ける音が近づき、三人の男が姿を現した。黒い軍馬に跨る大きな男は部隊長の佐門(さもん)(とおる)である。そして、それに続くのは、小柄な馬に跨る小さな体格の男であった。
「ただいま、戻りました」
ひらりと馬から下りると、佐門は跪いた。透もそれに続く。
「早速、報告を頼む」
慣れない様子で馬から下りた男は、鳥次の低い声を聞くと、叱られた子供のように身を竦めた。
「ご報告いたします。まずは、この者から説明を」
佐門に手招かれた男は、遠慮がちに鳥次の前へ歩み出た。
「お初にお目にかかります。章桂(しょうけい)と申す者でございます」
蚊の鳴くような声で言うと、男は小刻みに震えながら敬礼した。
「章桂殿、案内ご苦労であった。感謝致す」
国司の命により極秘任務に赴いた二人から、引き続き、あるものの捜索を開始するとの一報を受けたのは昨日の午後だった。本音を言えば巴慧の捜索に集中したいし、兵力を割かれるのは不本意だが、致し方ない。簡単な謝礼を述べると、鳥次は詳細な報告を求めた。
「まずは、貴方が何者であるかをお話しください」
そう促す透の言葉に励まされて、章桂はぽつりぽつりと話し始めた。
「私は、『禁じられた地』にいる、あるモノへ食料を運ぶ任務を二年に渡り、遂行してまいりました。任務の細かい詳細は省かせていただきますが、これは極秘任務であり、家族ですら知りません。この任務を担っているものは私の他に二人おります。一昨日の晩、その内の一人とともに彼の地へ行きましたが、そのモノが姿を消していたのでございます」
ここで鳥次が口を挟む。
「そのモノとは、いったい何だ」
「それは・・・、私の口から申し上げることはできません」
消える直前の灯のように揺れる声で章桂は答えた。
「どうしても、申すことはできぬか」
「・・・申し訳ございません」
章桂の意思は固かった。こういう者に吐けと強いても、決して口を割ることはない。時間が惜しい。鳥次は話を先へ進めた。
「続けてくれ」
「はい」
それ以上は追及してこないことに安堵した顔で、章桂は話を続けた。
「忽然と消えたのか、自ら抜け出したのかは分かりませんが、いなくなったのは確かですので、慌ててそのモノを探しました。しかし見つからず、直ちに、あるお方の元へ参りました」
あるお方とは、どのお方のことだと問いただしたい衝動を鳥次は堪えた。どうせ吐かないに決まっている。これでは事の全容が分からない。鳥次の苛立ちは募った。
「そのお方に事の経緯を話しますと、那祁家へ行くように言われましたので、明朝に那祁家へ向かい、その旨をご報告いたしました」
「それで、すぐさま我らに要請があったわけだな。佐門、透、その地で見たことを報告せよ」
「はっ」
軍人らしいよく通る声で佐門が報告した内容は、次の通りだった。
 
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