一、迫りくる轟

文字数 3,612文字

 雲を押し流す風が髪を揺らし、じりじりと照り付ける陽差しが肌を焼く。このままここにいれば丸焼きにされて鳥の餌になるか、干からびるかのどちらかだ。
「まだ来ねぇのか?ったく、どこで油を売ってやがんだ」
苛立ちを微塵も隠さずに男は不満を吐露した。三鷹山の山頂付近にある岩の上から山道を見張り続けて、早数年。いったいなんのためにここにいるのか、それすら忘れてしまった・・・。というのは冗談だが、そう思いたくなるほど長い時が過ぎたように感じる。他に何をするでもなく、娘がやって来るのを今か今かと固唾を吞んで待っているのだから、時の流れが遅く感じられるのも仕方のないことであった。それに加えて、この暑さだ。さらに加えれば、男はせっかちな性分である。山を飛び回っていたときとは打って変わって、不機嫌極まりない声で毒を吐き続けている。このままでは辺りの樹々を一掃しかねない。
 そもそも、比永の南方には村がいくつもある。そのため、馬で山を越える者は多い。途中に足場の悪い箇所もあるにはあるが、ほとんどが舗装されており、馬の通り道としては申し分ないはずだ。にも関わらず、娘を乗せた馬は未だに姿を見せていない。麓にすら到着していないということは、いまだに一つ目の山にいるということだ。
「あんなお椀をひっくり返したみてぇな山を越えんのに、どんだけ時間かかってんだよ。昼寝でもしてんのか?ったく、こっちが昼寝してやるぞ!」
「寝たければ寝ればいい」
ぼそっと善が呟いた。
「あぁ!寝てやるよ!」
ますます苛立って男は石を投げた。ひょいっとかわされて余計に腹が立つ。腹も減っている。そう意識すると、よけいにイライラが増した。すぐに見つけられるように山全体を見渡せるところまで登って来たというのに、娘はいったいどこで何をしているのか。
「まさか、南へ向かうと見せかけて、途中で方向転換したとか?」
「それはないだろ。出発するときは他に誰もいなかったし、周りを警戒してる様子もなかった。そんなまどろっこしいことするかよ」
冗談の分からない男だ。
「んなこたぁ分かってんだよ!ったく腹も減ったし、とっとと来やがれってんだ!」
男は不貞腐れて、岩の上で仰向けに寝そべった。
「まさか、先を行かれたとか」
ハッと閃いた顔で言ったが、すぐに「それはないか」と思い直した。木を伝って来た自分たちよりも馬の方が速いなんてことは、天地がひっくり返っても在り得ない。くるりと寝返りを打つと、岩をよじ登って来る黒い生物が目に留まった。
「おまえも暑いだろ?毎日大変だなぁ」
いよいよヤバい。虫と会話しだしたぞ。善の眉間に小さな皺が出現したとき、「おい」と、遠くを見ていた仁が呟いた。
「いたか」
「あぁ、あそこだ」
飛び起きた男と善は目を凝らし、仁が指さす方を見た。遥か彼方、山麓の辺りを進む何かが見えるが、ここからは米粒にしか見えない。並の視力なら、その米粒ですら見えないはずだが、善と男はじっと目を凝らし、その姿形をとらえた。
「黒い馬だな。けど、木が邪魔ではっきり見えねぇ。仁、見えるか」
当然だ、俺を誰だと思ってる。不服そうに仁は男を一瞥した。
「あぁ、あの娘だ。間違いない」
黒い馬に跨る娘の姿が、顔の細部から着物の柄に至るまで、仁にははっきりと見えていた。一つ目の山を越え、ようやく三鷹山へ入ってきたのを確認すると、
「やっと来やがったか!待たせやがってよ!」
と満面の笑みを浮かべ、男は溌溂と立ち上がった。
「もうひとりいる」
「あ?もうひとり?」
「あぁ、後ろに男が乗ってる」
男?出発したときは娘ひとりだったはずだが・・・。
「どんな男だ?」
「まだ若い」
「娘を見送りに来てた奴か?」
そう訊いた善が、「そういえば、おまえはずっと寝てたんだったな」と思い出し、苦笑した。
「見送りに来てた奴?そんなのいたか?」
善とともに娘が出発する瞬間を見ていたはずの男が首を捻った。
「いただろ?娘を見送ってたのが三人。老婆と若いのが二人」
目を閉じて記憶を探る。そんなのいたっけか。うーんと唸っていると、おぼろげにだが、老婆とガキが二人、川岸にいる光景が蘇ってきた。
「そういえば、ガキが二人いたな。そのうちのひとりか?」
「さぁな」
寝ていたから知らないって、さっき善が言っただろ?分かるはずもない事をまたもや訊かれた仁は素っ気なく答えた。男はガキの姿を記憶の奥から捻り出そうとしたが、娘と銀貨三十枚の馬にばかり気を取られていたので、さっぱり思い出せない。
「俺も、覚えてんのはガキだったってことくれぇだ」
訊かれる前に善が白状した。まったく、ひとりは寝ていて、もうひとりは適当にしか見ていない。困ったもんだと男は自分のことを棚に上げて思った。
「まぁいい、ここで待つぞ」
登って来るのに、まだしばらくはかかりそうだ。男がまた寝そべろうとしたとき、
「もうひとりいる」
と、仁が言った。
「誰がいるって?」
仁は一つ目の山のさらに向こう側を指して、「ガキがもうひとりいただろ?そいつだ」と言った。
「どこだ?」
目を凝らして探すが、さすがに距離がありすぎる。
「山に向かって走ってきてる」
「ガキがもうひとりいただろって、どいつのことだ?」
さっぱり分からないという顔で首を傾げる男の問いに、
「娘と老湾の店に来たガキだ」
と仁は答えた。
「あぁ!あのガキか!そいつが来てんのか?」
「そうだ」
仁が言うなら間違いない。
「嬢ちゃんを追ってきたのか?」
その問いには答えずに、仁は退屈そうにあくびをした。
「娘を連れ戻しに来たのかもな」
「なんで連れ戻すんだよ」
「知るかよ。街でなんかあったんじゃねぇか?さて、どうする?」
善が男を見た。男は目を閉じ、口をへの字に曲げている。娘はどういうわけか、とてつもなくのんびりと走っている。このままではガキに追いつかれるのも時間の問題だ。今すぐ飛んで行って、娘をかっさらうか。いや待てよ、いきなり目の前に現れるのは野蛮過ぎる。娘を怖がらせるのは得策ではない。かと言って、ガキに娘を連れ戻されたら、ここまで来た意味がなくなってしまう。さて、どうしたものかと考えあぐねていると、「なんだ、この音は」と、善が耳に手を当てて言った。
「音?俺には聞こえねぇが、どんな音だ?」
「近づいてくる音だ」
そう言うと善は目を閉じ、耳に神経を集中させた。遠くで蹄と土がぶつかり合う音が轟いている。その地鳴りのような音は徐々に、だが確実に迫ってきている。
「馬が近づいてくる音だ。十頭はいる。間違いねぇ。こっちに向かってくる」
「商人か移送用の荷車じゃねぇのか?」
「いや、そういう音とは違う。ちょっと待て」
善は、さらに神経を研ぎ澄ませた。がしゃ、がしゃ、と金属や鉄がぶつかる音がする。武器だと直感的に思った。
「軍馬だな。まず、間違いない」
善が言うと、仁が目を細めて田園の方まで見渡した。
「どうだ?見えるか?」
仁は首を横に振った。ちょうど死角に入ったせいで、白く舞う砂埃しか見えない。ここは善の耳に頼るしかない。
「訓練にでも行くんじゃねぇのか?」
「ちょっと黙ってろ」
ぴしゃりと跳ね返された男は、ぐっと口をつぐんだ。
―山へ入ったぞ!この距離を保て!
集団のひとりが、そう指示するのを善の耳がとらえた。
「あのガキを追ってる」
「あのガキって、老湾のガキか?」
「そうだ」
「何で追われてんだよ。あいつ、何しでかしたんだ?」
しばらくの間、三人は前方にある低い山を見張り続けた。
「あっ!あれか、あいつだな?」
山道を駆ける少年が木々の狭間から姿を現した。
「老湾のガキだな?」
仁が頷いた。ちょうどあの辺りは伐採が進んでいるため、ここからでも茶色い馬に乗る少年のあどけない顔がはっきりと見える。
「おい、善!嬢ちゃんを追いかけてるガキが、軍馬の集団に追われてるってことか?何じゃそりゃ!」
「知るかよ。なんか、やっかいなことになってそうだな」
善は苦笑した。
「あいつ、追われてることに気づいてねぇんじゃねぇか?」
男は目を凝らした。馬上の少年からは、後ろを気にする様子は見受けられない。まさか集団が追ってきているとは夢にも思っていないようだ。
「ったく、どんくせぇ奴だな!」
「あれじゃ、すぐに追いつかれるな。さて、どうする?」
善の灰色の目が、いたずらっ子のように煌めいた。
「どうするかって?」
藍色の上着を翻しながら男は声高らかに言った。
「決まってんだろ?これは天機ってやつだ!」
飛び立とうとする男に、
「一応、そうする理由を聞いておこうか」
と、からかうように善が問いかける。
「面白そうだからだ!それ以外に理由がいるか?」
見えない翼を広げ、男は下方へ飛んだ。善と仁が顔を見合わせる。善は穏やかに笑うと、ぽんっと仁の肩を叩いた。
「いや、十分だ」
そう答えると、善は軽々と岩から飛び降りた。やれやれと言う顔で眼帯の紐を締め直し、仁も岩を蹴る。そして、放たれた矢のように弧を描きながら、真下に広がる緑の中へ落ちて行った。
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