三、老湾へ(4)

文字数 2,342文字

 玄関口で待っていると、男がやってきて「来い」と二人に声をかけた。
「よし、行こうぜ!」
軽快に歩き出すカイリとは対照的に、巴慧はおずおずと一歩を踏み出した。広い通路を仏頂面で歩く男について行くと、突き当りの左手に大きな扉がある。男が太い腕で重厚な扉を押すと、濃い煙とともに耳をつんざく怒声が飛んできた。
「てめえ、今のは俺の当たりだろうが!」
「この野郎、どこに目ぇつけてんだ!役に立たねぇなら、かっぽじってやろうか!」
いったい、何事だろうか・・・。呆気に取られて中を覗くと、大きな広間に円形の卓がいくつもあり、男たちが前のめりの姿勢でそれらを囲んでいる。椅子はあるにはあるが、使っている者はほとんどいない。煙草の煙に汗の匂いが混じる室内は、蒸しかえるように熱そうだ。
「十三!」
「三十五!」
「五十!」
男たちが口々に叫ぶ。
「賭博だよ。全く、昼間っからどうしようもねぇおっさんどもだな」
唖然とする巴慧にカイリがため息交じりに説明した。
「心配いらないよ。みんな、気の良い連中だから」
とてもそうは見えない。あからさまに尻込みする巴慧の手をカイリが引っ張った。姿勢を低くして隠れるように入室したが、どの男も賽を振ったり札遊びをしたりするのに夢中で、来訪者に気づく者はひとりもいない。買った負けたで一喜一憂する男たちにぶつからないよう注意しながら、二人は奥にある卓まで歩いていった。門番の男が酒を飲みながら札遊びをしているひとりの男に何やら耳打ちすると、その者は顔を上げて、
「カイリじゃねぇか。どうした、こんな真っ昼間から」
と軽快に声をかけた。
「お天道(てんと)様が昇っている内は来ねぇくせに。めずらしいな」
その言葉を聞いた巴慧は、まるで知らない人を見るかのようにカイリを見つめた。カイリは慌てて、「今日は用事があって来たんだよ。いつもそうだろ?」と弁解した。
「おい、席を譲ってやれ」
賭け事に興じていた男たちに言うと、
「相変わらず、こんなことばっかやってんのか?まだ昼間だぜ」
と無遠慮に言うカイリを男は隣の席に座らせた。
「ははは!まぁ、そう言うなよ」
豪快に笑うと、男はカイリの横で縮こまっている巴慧に視線を移した。
「で?いったい何の用だ。用があんのは嬢ちゃんだろ?」
「嬢ちゃんだってよ、巴慧ちゃん」
ほら言っただろ、やっぱり男のふりなんて無理なんだとカイリが笑う。このいかつい男を前にしても寛いだ様子で大笑いするカイリを、巴慧は感心しつつも半ば呆れ顔で見つめた。
「ほら、見せなきゃ始まんないぞ」
そう励まされて男の方へ歩み寄ると、巴慧は恐る恐る包みを渡した。
「これを売りたいのですが」
男は鋭い目つきでじろりと巴慧を見てから包みを開けた。
「ほぉ、なかなかの代物じゃねぇか」
男の顔つきが変わった。包みから出てきたのは上等な着物が数枚と丁寧に包装された簪、耳飾り、首飾りなどの高価な装飾品だった。どれも見事な細工が施されている。
「お嬢ちゃん、これをどこで手に入れた?こりゃあ、そんじょそこらの代物じゃねぇぞ」
巴慧は俯いたまま答えない。男はしばらく回答を待ったが、やがて肩をすくめて、「まぁいい、どっかの姫さんから盗んできたってとこか」と言って、それ以上は詮索しなかった。気まずそうに目を伏せていた巴慧は、ほっと安堵のため息を漏らした。
「これで全部だな?本当にいいんだな?やめるなら今のうちだぞ」
そう確認されて机の上に並べられたものを見ると、紅い宝玉の首飾りが置いてある。
「あ、これはだめです!これは売れません!」
慌てて首飾りに手を伸ばした。大事なものだからと口を滑らしそうになるのをぐっと堪える。これは父が裳着の祝いに贈ってくれたもので、ずっと大切にしてきた。とっさに持ってきてしまったが、これだけは売るわけにはいかない。
「じゃあ、それは持って帰ればいい。ほかのものは本当に良いんだな?」
「はい」
「ズルすんなよ。俺がちゃんと見てるんだからな」
カイリが口を挟む。
「そんなことするかよ。汚ねぇ仕事したら叱られるからな」
男はそろばんをはじき、計算を始めた。そして紙に何かを書くと、隣の男に渡した。
「それにしても、よくもまぁこんなとこに来たもんだよ」
男は頬杖をつくと、巴慧の顔をじっと眺めた。巴慧は居心地が悪そうに、もじもじと爪先を動かした。
 男とカイリが雑談している間、巴慧は今後について考えを巡らせた。ちゃんと目的地にたどり着けるだろうか。那祁家の状況も気になる。あと、どれぐらい猶予があるだろう・・・。
 紙を渡されて席を立った男が、小包を手に戻って来た。それを受け取ると、男は中身を確認してから巴慧に渡した。
「ほらよ、金貨三十枚と銀貨二百枚だ」
「金貨三十枚?」
カイリの目玉が零れ落ちそうになった。そんな額は聞いたこともない。
「気をつけろよ。いくら比永が安全っつっても、そんだけの大金を持ち歩いてたら、うっかり悪事を働いちまう輩もいるからな」
「はい、気をつけます。ありがとうございました」
巴慧は小包と首飾りを着物の懐に収めた。丁寧にお辞儀をしてから微笑むと、男は髭に覆われた口元を緩めた。見た目ほど怖い人ではないらしい。
 遠ざかっていく二人の背中を眺めていたが、男は突然に声をかけた。
「カイリ」
呼び止められたカイリは即座に振り返った。
「守ってやれよ」
普段はおちゃらけた男が、かつてないほど真剣な目をしている。少しばかり戸惑いを感じたが、「あぁ、わかってるよ。じゃあな」と、カイリは軽く手を振った。
 密閉された室内は蒸し暑く、一気に汗が噴き出す。緊張が解けた途端に体中の血が暴れ始めたらしい。真っ黒な煙で視界が狭まり、涙が滲んだ。
「さっさと出ようぜ」
獣のような匂いに咽そうだ。鼻の前で手を振りながら、カイリは巴慧の背中を押した。

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