三、予期せぬ来訪者

文字数 1,916文字

 巴慧と一新が寝静まった頃、軍の訓練場を出発した荒人と佳水は比永のすぐ近くまで来ていた。全速力で走り続けてきた馬の荒々しい鼓動が伝わる。休憩させてやりたいが、そうもいかない。気ばかりが焦り、体が前のめりになっている。激しい振動に尻が痛むが、そんなことはどうでもよかった。
「荒人様、直に着きますが、どうされるおつもりですか?」
那祁家の屋敷で問うたことを再度、佳水が問う。
「医者を探す!」
佳水はなんとか風の中から荒人の声を拾い上げた。
「医者、でございますか?それは、どのような医者でしょうか?」
馬上で会話をするのは実に難儀だ。大きな声を出すのは性に合わないが仕方ない。佳水は声を張り上げた。
「詳しくは知らないが、巴慧が仲良くしていると話していた医者がいるのだ!比永へ行ったのなら、その者を頼るかもしれない!」
この数年、二人は何度も文のやり取りをしていた。ひとりの医者に出会い、とても親切にしてもらっていると巴慧は文に書いていた。
「では、急ぎましょう!」
二人は残りの道を更に速度を上げて走った。
 街へ着いたのは、夜が最も深まった頃であった。しかし、そうとは思えぬほど街中には人が溢れ、煌々と明りが灯されている。大通りでは、いったん店じまいをした商人たちが、大幅に値引きした商品を茣蓙の上に並べて売っていた。酒屋は賑わい、奏者が演奏する楽器の音に合わせて人々が踊っている。
「祭りは昨日じゃなかったのか?」
騒ぐ人々の笑い声が、やけに癇に障る。
「今日の昼過ぎにも違う祭りがあったようです」
通りすがりの者が話すのを耳にした佳水が説明した。まだ興奮が冷めやらぬというわけか。
 数年ぶりに比永の街中を歩き、巴慧のために手鏡を買ったのは昨日のことだ。父の代理として官府へ赴き、大臣と会談したのは今朝の出来事だ。なのに、たった数刻の間に見える景色はがらりと変わってしまった。荒人は大口を開けて楽しそうに踊る人々を忌々しそうに眺めた。
 二人は警備中の憲兵を掴まえた。巳玄の国では各都市に憲兵隊が配置されており、治安維持に努めている。三峰に渡された巳玄軍の紋章を見せると、その憲兵は即座に敬礼をした。二人はまず、巴慧らしき少女を見なかったかと尋ねた。
「申し上げにくいのですが、一昨日から多くの者が街に出入りしております。当然ながら、他国の者も含まれます。若い娘と言われましても」
兵士は淡々と答えた。十七、八の娘と言われても、そんな娘はごまんといる。祭りともなれば、滅多に外出を許されない貴族の娘も護衛を引き連れて町へ繰り出すし、普通の町娘もここぞとばかりにめかしこんで街中を歩き回る。年頃の娘など、文字通り至る所で目にした。その中で特定の娘を探し出すのは不可能だとでも言いたげな顔で、憲兵は首を横に振った。事の重大さを理解していない憲兵を叱咤してやりたい衝動に駆られたが、探し人が那祁家のひとり娘である事実を明かすわけにはいかない。軍隊と憲兵隊はそもそも異なる組織であり、勝手なことをして軍に迷惑をかけるわけにはいかないのだ。
(ついてない、よりによって祭りの日とは・・・)
苦虫を噛み潰したような表情をする荒人の代わりに、佳水が開業している医者について尋ねた。
「もちろんおります。この街には診療所が数十軒ありますが、中でも名の通った医者は十名ほどしかおりません」
針を用いたり、薬草を煎じることで体の不調を治す者は多くいるが、医者の称号を与えられた者は数えるほどしかいない。たしかに巴慧は医者という言葉を使っていた。荒人は地図を取り出して広げると、丸印をつけるよう頼んだ。
 兵士がくれた情報を頼りに、二人は医者を訪ねて回った。面識のない者を尋ねるには無礼な時間帯であることは百も承知だが、急がねばならない。しかし、突然の来訪者に医者たちは驚く素振りを見せなかった。不調を訴えて戸を叩く者は昼夜問わずいるからだろう。
「残すは・・・、この三人か」
中心部から少し外れた地区につけられた丸印を指し、荒人は道順を確認した。この地区には三人の医者がいるということだった。これまで話を聞いた医者の中に巴慧を知る者はいなかった。嘘を言う者がいれば佳水がすぐに見抜くが、皆、正直に答えていた。
 巴慧を知る医者は、もういないのではないか。そのことについて書かれた文を受け取ってから随分と月日が経つ。故郷へ帰ったかもしれないし、この街にいても、すでに引退しているかもしれない。荒人は強い不安を抱いた。
 一軒の簡素な建物の前に着くと、荒人は遠慮がちに戸を叩いた。ほどなくして、ひとりの男が呼び掛けに応じ、戸を開けた。
「夜分遅くに申し訳ありません。ひとつ、お尋ねしたいことがあるのですが」


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み